丘の上に、古い洋館がある。レンガの壁は苔むし、鉄製の門はキーキーと軋む音を立てる。
しかしそこには、今でも人の気配があった。
――金曜の午後三時。
風がやみ、空気が甘くなる。そう、マリー・ベル嬢のお茶会の日だ。
「まあまあ、お待たせしてごめんなさい。紅茶はアッサムとダージリン、どちらがよろしいかしら?」
レースのカーテンが揺れるサンルーム。
お茶会の日だけ、廃墟は往年の姿を取り戻した。
古風な家具が並ぶ中、ふわりと現れる白いドレスの女性。それがマリー・ベル嬢である。
年の頃は二十歳そこそこ、カールした金髪をきっちり巻き上げ、微笑みはどこまでも気品に満ちている。どこからどう見ても完璧なお嬢様――であるが、問題がひとつ。
彼女はもう、死んでいる。
「両親は今、ヨーロッパ旅行中で……あら、心配なさらないで。私がちゃんとおもてなしいたしますわ」
毎週、訪れるお客様に、マリー・ベル嬢は必ず同じ説明をする。もちろんその両親も、彼女自身も、もうこの世にはいない。
だが本人はそれにまったく気づいている様子はなく、紅茶を注ぎ、ケーキを振る舞い、毎週欠かさずお茶会を続けている。
客の顔ぶれはさまざまだ。
霊感の強い女の子、肝試しにやってきた若者たち、近所の迷い犬。なぜか気づけばテーブルについている。
「まあ、ワンちゃん、甘いものはお好き? うふふ、遠慮しないで」
マリー・ベル嬢の無邪気な笑顔に、誰もが戸惑いつつも癒されてしまう。
彼女の周囲だけ、時が止まっているのだ。彼女は1823年の金曜日を、永遠に繰り返している。悲劇が起こる直前の、幸せだった年の金曜日を――
ある日、お茶会に一人の霊媒師が招かれた。四十代半ば、渋い声とスーツ姿。
本来ならこういう洋館に近づかないタイプだが、「あの洋館に幽霊がいると聞いたので調査してもらえませんか?」という依頼を受けて来訪した。
「あなた、少し顔色が悪いようですわ。これを召し上がって? 手作りのレモンタルトですのよ」
「ああ、ありがとう……いただきます」
彼は少し黙ってから、切り出した。
「マリー・ベル嬢、あなたは……その……ご自身が、亡くなっていることをご存じですか?」
「まあっ」
マリー・ベル嬢は両手で口をおさえ、目を丸くした。
「そんなこと、あるわけありませんわ! だってこんなに元気ですもの。見て、ほら」
そう言って、透けた手でティーポットを持ち上げようとしたが、それをすり抜けた。
一瞬の沈黙。
「……まあ! こっちでしたわ!」
マリー・ベル嬢は半透明のティーポットを優雅に持ちあげた。そう、お茶や食器、お菓子はすべて半透明で、マリー・ベル嬢と同じく、もはやこの世には存在していないものだった。
だから客たちは食べているふり、飲んでいるふりをして、マリー・ベル嬢との会話を楽しんでいたのだ。
霊媒師はそっと目を伏せた。
この人は、気づいていないふりをしているだけだ。自覚して、望んでこの場所にいる。――つまり自分の出る幕はない。
霊媒師はマリー・ベル嬢に丁寧にお茶会の礼を述べて帰っていった。
お茶会はなおも続く。
今日は近所の子どもたちが、都市伝説的な好奇心を持って、この館を訪れた。
ドアは自然と開き、奥からティーカップとソーサーのふれあう音が聞こえる。
「いらっしゃいませ。ごきげんよう。今日は特別に、紅茶と桃のゼリーもございますの」
マリー・ベル嬢の笑顔は、いつもと変わらず眩しい。
「これはうちの畑で採れたブルーベリーですのよ……あら? どうして私、畑仕事なんて……」
ふと、顔が曇る。
一瞬、記憶の裂け目が覗くのだ。
火事、爆発音、悲鳴、飛び散るガラス。亡くなった両親のむごたらしい亡骸、親戚の間をたらい回しにされる自分、罵り合い、そして、遠縁の農家に送られ、優雅な暮らしとは一転、小言を言われながら畑仕事を強いられる日々……。
そして、つらくて、悲しくて、さみしくて、自らごうごうと流れる川に――。
「まあまあ、変なことを思い出してしまいましたわ。さあ、どうぞ召し上がって」
丘の上の洋館は、今日も沈黙をたたえたままそこにある。かつて火事で焼け落ちた洋館は、とある好事家が復元し、長い年月をかけてまた廃墟となった。
村人たちはもう、マリー・ベル嬢を受け入れていた。「ちょっと古風なご近所さん」として。
誰かが言った。
「あの人は好きなだけあそこにいたらいい」と。
だから、誰も彼女を邪魔しない。招待があれば、お茶会に出向く。
金曜の午後三時、丘の上の風が止み、甘い香りが漂ったら――それはマリー・ベル嬢のお茶会の合図。
テーブルにはきちんと人数分の席が用意されていて、貴族趣味の少女の笑顔が、紅茶と共に迎えてくれるだろう。
「いらっしゃいませ、ごきげんよう。お茶を、どうぞ」
それはこの村に残る少し悲しいけれど、癒やしでもある伝説のお話。
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