#255 幸福化社会にて、鳥は歌わず

SF

働かなくていい。

食事も、運動も、睡眠すらも必要ない。

人工代謝調整、神経伝達最適化、精神恒常性維持装置。

技術の進歩によって人間の「必要」はすべて満たされた。

娯楽は無限、痛みは除去され、争いも淘汰された。

幸福化と名付けられたこの新しい時代の到来は、誰もが望んでいたユートピアそのもののはずだった。

――なのに、人々は死んでいった。

理由なき自殺。

日々、誰かが静かに姿を消し、やがて統計上の数字として並んでいく。
遺書もなく、懊悩の痕跡もなく、ただ静かに。

研究者の名はソラミ・ノエル。

かつて神経工学の第一人者とされたが、幸福化政策が施行されてから研究の必要が消滅し、今は個人的興味で動く「探究者」として生きていた。

ある日、ノエルはデータベースに残された記録のなかで、興味深い断片に出会った。

ある自殺者の脳スキャン記録。最期の数秒間、彼の脳は異常な活性を示していた。幸福中枢とは無関係な、かつて「苦悩」と呼ばれた領域の活性だった。

ノエルはその脳信号を仮想現実へと翻訳し、自らの脳へ接続した。疑似体験が始まる。

目を開けると、そこは草原だった。

鳥の鳴き声、風に揺れる葉、青すぎる空。しかしそれは好ましいものとして感じられない。灰色の、なんとも味気ないものとして目に写っていた。

その中に、一人の若者が座っている。

表情は穏やかだが、目の奥が空虚だった。

「なぜ死んだ?」と仮想現実の中のノエルは問うた。

若者はひっそりと微笑み、言った。

「何も望まなくなったから」

「すべて与えられた世界で、人間は、何かを求める必要がない。――でもね、何かを求めることこそが、生きている感覚だったと今は思う」

ノエルは理解できなかった。

「求めたければいくらでも自分で作れるだろう。今は娯楽も無限にある。好きな映画やドラマを見たり、仮想現実でどんなスポーツでも、冒険でも手軽にトライできる。怪我もしないし、事故にも遭わない。完全に安全だ。『仕事』がしたいなら擬似的な『就職』施設がいくらでも準備されているじゃないか。私だって、研究という趣味が捨てられずに、こうやって研究を続けているが、こんなものは課題をAIに伝えて任せれば、すぐに済む作業なんだよ」

不満もなく、痛みもない世界に、何が足りないのか?

若者は続けた。

「それじゃだめだったんだ。僕たちが消してしまったどうしようもない『足りなさ』こそが、僕たちの呼吸だったんだ。夢も飢えも、嫉妬も、退屈も――それが生きている証だった。それが消えてしまったから、僕らはなぜ生きているのかが分からなくなったんだよ」

仮想世界が崩れ始めた。風が止み、鳥の声が消えた。

「鳥は歌わなくなった」

最後に若者はつぶやき、虚空に溶けていった。

ノエルは現実に戻った。

ベッドに横たわりながら、胸の奥に重い鉛のような違和感を抱えていた。

生きるとは、常に何かを欠いた状態だったのかもしれない。――であれば、幸福化政策は間違いだったということなのか。いや、しかし、自殺者は右肩上がりであるものの、それでもなお多くの人間がこの幸福化した世界を謳歌している。

次の日、ノエルは職業データベースに「研究者」の項目を再登録した。

「人間がなぜ生きたいと感じるのか」――それは、まだ誰も完全には解明していない領域だった。AIに投げれば、瞬時にあらゆる考察が、しかも無尽蔵にあがってくるだろう。しかしこれは人間が考えなければならないような気がしていた。

そして今日もまた、幸福社会のどこかでひとり、人知れず息を止めた者がいる。

名を呼ぶ者もなく、悲しむ者もいないその静けさのなかで、ノエルだけが小さく震えていた。

完璧な幸福と耐えがたい孤独は表裏一体のものなのかもしれない。ノエルは、久しぶりに研究室にこもり、旧式のコンピュータを立ち上げた。

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