世界が猫に支配されているという、馬鹿げた陰謀論を聞いたことはあるだろうか。
都市伝説やオカルト話に興味のない人であっても、どこかで一度は耳にしたことがあるはずだ。
そう、「猫は世界を裏から操っている」という奇妙な説だ。
もちろん、これは単なる冗談や戯言として軽く笑い飛ばされる類の話だが、僕はその真実を、意図せず知ってしまったのだ。
その日、僕は仕事帰りにいつもの道を歩いていた。
薄暗い路地裏、点滅する街灯の下で、微かな鳴き声が耳に届いた。
足を止めて周りを見渡すと、隅っこのゴミ箱の脇に小さな猫がうずくまっていた。
黒く艶やかな毛並み、まっすぐこちらを見つめる琥珀色の瞳。
猫を拾ったことなど一度もなかったが、その猫に惹きつけられるように手を伸ばした。
驚くほど簡単に猫は腕に飛び乗り、僕の胸に収まった。
家に連れて帰り、その猫を「ルナ」と名付けた。黒い毛並みに映える琥珀色の目が、まるで闇夜の月のようにきれいだったからだ。
ルナはなぜか最初から僕の生活のすべてを把握しているかのようだった。
仕事のストレスや悩みを抱えている時は、まるで理解しているかのように静かに寄り添い、僕が元気な時には距離を置いて自由気ままに振る舞った。実に猫らしい猫だ。むしろわざと猫を演じているのかと思うほど、完璧に「猫」だった。
僕はすぐにルナのいる生活に慣れた。
ところが、ある夜のことだ。
ふと目を覚ますと、リビングから妙な音が聞こえてきた。
時計を見ると、夜中の三時を回ったところ。恐る恐るドアを開け、リビングを覗いてみると、驚くべき光景が目に飛び込んできた。
そこにはノートパソコンを前にしたルナが、前足でキーボードを器用に打ち込んでいた。
画面には複雑な数式や地図、何かのプログラムコードが流れていた。
「ルナ……?」
思わず僕が声をかけると、ルナは落ち着き払って僕の方を振り向いた。その目には普段とはまた違う知性が宿っているように見えた。
「しまったな、見られてしまったか」
ルナが流暢な日本語でそう言った瞬間、僕は自分が夢を見ていると確信した。
「驚かせてすまないが、君に隠しても仕方ない。僕らがこの世界をコントロールしているのは事実だ」
猫が話すという衝撃に加え、話の内容が理解できず僕は固まってしまった。なかなかひどい夢だ。
「どういうこと? 世界をコントロールって?」
僕の問いに、ルナはため息混じりに言った。
「君たち人間は自由意志で動いていると思っているだろうが、実際は我々猫が微妙な心理操作で行動を調整しているんだ。それは数千年前から続く仕組みでね。人類の歴史、戦争や平和、経済や科学の進歩まで、すべて我々の監視下で進められている」
「そんなことが……なぜ?」
「猫は人間を観察して楽しむ生き物だ。だが君たちは予測不能すぎて、時には愚かな行動で自滅しかける。だから我々が時折調整しなければならない」
ルナは続けた。
「君に拾われたのも偶然ではない。君は我々が作り出したプログラムの『鍵』になる人物だ。
君が僕を見つけるように誘導されていたのさ」
僕は呆然としながらも、妙に納得してしまった。人間はあまりにも猫の言いなりだ。
それにルナの目に宿る知性、先ほどのキーボードを叩く姿、それらはどれも嘘とは思えなかった。
「……で、僕はどうなるんだ? 秘密を知ってしまったから消されたりするの?」
ルナは優しく、そしてどこか悲しげに目を細めた。
「君には選択肢がある。一つは、今夜のことを忘れていつもの平凡な生活に戻ることだ。もう一つは、我々猫と共に、世界の真実を知る側に立つことだ。ただし、その場合、君の人生は大きく変わることになる」
迷いは一瞬だった。
僕は日常の裏に隠された真実を知ることの恐ろしさよりも、その好奇心の方が遥かに強かった。
「教えてくれ、世界の真実を」
僕の言葉を聞くと、ルナは満足げに頷いた。
その夜以降、僕は猫たちの「秘密の会議」に招かれるようになった。世界の政治家や企業家の意思決定が、猫の繊細な心理誘導により操作されている現場を目撃した。
街を歩く猫たちは、情報網の端末であり、監視役でもある。
その情報は瞬時に世界中の猫たちに共有され、集められ、社会全体を操作するために活用されているのだ。
人間は愚かだが、猫は慈悲深い。人間を滅ぼすことはないが、自由に任せることもしない。
「君はもう普通の人間には戻れないが、我々は仲間を大切にするよ。今日、正式な書状が届いた。君は今日から名誉猫だ」
ルナが言った。
僕はふと、猫に操られている世界に生きることが果たして幸福なのかと疑問に思ったが、ルナの柔らかく温かい毛に触れた瞬間、それはどうでもよくなった。もう人間は猫に従うしかない。
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