#260 ルームフレグランス

ちいさな物語

新しい部屋に越してきた夜、友人から小包が届いた。

中身は、洒落たガラス瓶に詰められたルームフレグランス。細いリードスティックが数本ついている。そして、「新生活に癒しを」と、メッセージカード。

香りはラベンダーと柑橘を混ぜたような、どこか懐かしい匂いだった。

部屋の隅に置いた瞬間から、空気がふわりと変わった気がした。新築特有の冷たさが和らぎ、目に見えないヴェールに包まれるような感覚。

「悪くないな」

僕は満足して、ベッドに潜り込んだ。

夜中、ふと目が覚めた。

窓の外では、まだ街灯が鈍く光っている。部屋には、あの香りが満ちていた。

ラベンダーとも柑橘とも違う、もっと深く、甘い、知らない花の匂い。

そして気づいた。

壁の模様が、少し違う。昼間見たときは、ただの白い壁紙だったはずだ。

それが、いまはうっすらと蔦のような模様が浮かび上がっている。

触れてみると、指先がじんわりと温かく感じられた。

目の錯覚かと思った。だが、その夜から、部屋は少しずつ「ずれて」いった。

次の日、帰宅すると、部屋が異様に静かだった。時計の秒針の音すら聞こえない。

窓から見える景色も、どこか違う。本来見えるはずの向かいのマンションが、影のようにぼやけている。

部屋の隅には、知らない影がひとつ、ちいさく揺れていた。

それでも、僕は不思議と怖くなかった。

あのルームフレグランスの香りが、すべてをやわらかく包んでいたからだ。

それから一週間。

部屋は、ますます「別の場所」になっていった。

夜になると、床に柔らかな苔のようなものが生え、天井には微かな星が瞬いた。

空気はしっとりと湿り、香りは日ごとに濃くなった。

僕はもう、外に出るのが億劫になっていた。仕事にも出なくなった。

スマホも、いつの間にかバッテリーが切れたまま、充電する気すら起きない。

ある晩、部屋の奥に、見知らぬ「扉」が現れた。細い木枠に、つる草が絡まり、真鍮の取っ手が光っている。

香りは、扉の向こうから漂ってきた。誘われるように、僕は取っ手に手をかけた。扉は、軽い音を立てて開いた。

その先には、庭が広がっていた。

夜の庭。

銀色に輝く草原。見たこともない花々。光る蝶。空には二つの月が浮かび、柔らかな音楽が風に乗って流れていた。

そして、庭の中央に、一脚の椅子があった。

誰かが座っていた。遠くて顔は見えない。でも、なぜか懐かしかった。

僕は庭に足を踏み入れた。

ふわり、と、身体が軽くなる。地に足がついている実感もない。

香りが、あたりを満たしていた。あのルームフレグランスの、最初の香りだ。ラベンダーと柑橘の、あたたかくて、ほっとする匂い。

椅子の人影が、ゆっくりと立ち上がった。そして、手招きした。

その瞬間、背後でドアが閉まる音がした。

振り返ると、もう何もなかった。ただ、夜の庭だけが、永遠に続いていた。僕は歩き出した。香りの道をたどりながら。

いま、僕はこの庭で暮らしている。日が昇らない世界。時間が止まった世界。でも、不思議と寂しくはない。風はやさしく、香りは甘く、空気は静かに歌っている。

たまに、どこか遠くから、新しい香りが流れてくる。きっとまた誰か、新しい住人が来るのだろう。ここは、忘れられたみんなの家だから。

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