新しい部屋に越してきた夜、友人から小包が届いた。
中身は、洒落たガラス瓶に詰められたルームフレグランス。細いリードスティックが数本ついている。そして、「新生活に癒しを」と、メッセージカード。
香りはラベンダーと柑橘を混ぜたような、どこか懐かしい匂いだった。
部屋の隅に置いた瞬間から、空気がふわりと変わった気がした。新築特有の冷たさが和らぎ、目に見えないヴェールに包まれるような感覚。
「悪くないな」
僕は満足して、ベッドに潜り込んだ。
夜中、ふと目が覚めた。
窓の外では、まだ街灯が鈍く光っている。部屋には、あの香りが満ちていた。
ラベンダーとも柑橘とも違う、もっと深く、甘い、知らない花の匂い。
そして気づいた。
壁の模様が、少し違う。昼間見たときは、ただの白い壁紙だったはずだ。
それが、いまはうっすらと蔦のような模様が浮かび上がっている。
触れてみると、指先がじんわりと温かく感じられた。
目の錯覚かと思った。だが、その夜から、部屋は少しずつ「ずれて」いった。
次の日、帰宅すると、部屋が異様に静かだった。時計の秒針の音すら聞こえない。
窓から見える景色も、どこか違う。本来見えるはずの向かいのマンションが、影のようにぼやけている。
部屋の隅には、知らない影がひとつ、ちいさく揺れていた。
それでも、僕は不思議と怖くなかった。
あのルームフレグランスの香りが、すべてをやわらかく包んでいたからだ。
それから一週間。
部屋は、ますます「別の場所」になっていった。
夜になると、床に柔らかな苔のようなものが生え、天井には微かな星が瞬いた。
空気はしっとりと湿り、香りは日ごとに濃くなった。
僕はもう、外に出るのが億劫になっていた。仕事にも出なくなった。
スマホも、いつの間にかバッテリーが切れたまま、充電する気すら起きない。
ある晩、部屋の奥に、見知らぬ「扉」が現れた。細い木枠に、つる草が絡まり、真鍮の取っ手が光っている。
香りは、扉の向こうから漂ってきた。誘われるように、僕は取っ手に手をかけた。扉は、軽い音を立てて開いた。
その先には、庭が広がっていた。
夜の庭。
銀色に輝く草原。見たこともない花々。光る蝶。空には二つの月が浮かび、柔らかな音楽が風に乗って流れていた。
そして、庭の中央に、一脚の椅子があった。
誰かが座っていた。遠くて顔は見えない。でも、なぜか懐かしかった。
僕は庭に足を踏み入れた。
ふわり、と、身体が軽くなる。地に足がついている実感もない。
香りが、あたりを満たしていた。あのルームフレグランスの、最初の香りだ。ラベンダーと柑橘の、あたたかくて、ほっとする匂い。
椅子の人影が、ゆっくりと立ち上がった。そして、手招きした。
その瞬間、背後でドアが閉まる音がした。
振り返ると、もう何もなかった。ただ、夜の庭だけが、永遠に続いていた。僕は歩き出した。香りの道をたどりながら。
いま、僕はこの庭で暮らしている。日が昇らない世界。時間が止まった世界。でも、不思議と寂しくはない。風はやさしく、香りは甘く、空気は静かに歌っている。
たまに、どこか遠くから、新しい香りが流れてくる。きっとまた誰か、新しい住人が来るのだろう。ここは、忘れられたみんなの家だから。
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