#263 窓越しの隣人

ちいさな物語

僕のデスクは窓際で、隣のビルのオフィスがよく見える。

こちらも向こうもガラス張りのオフィスだから、嫌でも互いの様子が目に入った。はじめはなんだかプライバシーが侵害されているようで、いい気分ではなかった。

しかし、ある日の午後、ふと目を上げると、隣のオフィスでこちらを眺める女性と目が合った。

最初はお互い気まずくて目をそらしたが、次の日もまた視線が交錯した。どうしても視界に入ってしまうので、向こう側で動きがあると見てしまうのだ。

ある日の午後、彼女がちょっと微笑みながら軽く手を振ってきたので、僕も手を上げて返した。なるほど、どうせ視界に入ってしまうなら、「わずらわしい」という感情が湧かないようにしようというわけか。僕もそれに異存はない。

また別のある日、彼女は僕のデスクを指さして「コーヒー?」と聞くようなカップを持つジェスチャーをした。

僕が頷いて自分のカップを掲げると、彼女は笑顔を浮かべた。そして自身のマグカップを掲げて見せ、オフィスの奥を指さす。これから給湯室でコーヒーを淹れてくるということだな。不思議なくらい言いたいことがわかる。

そんな風にして僕らの無言の交流が始まった。

いつしか彼女の同僚たちも僕らのやり取りに気づき、何人かが加わってくるようになった。

隣のオフィスの男性社員が「退屈だ」というような顔をすると、こちらの同僚がふざけた顔で「働けよ」と返す。こちらの同僚がお菓子を見せびらかすと、向こうの男性社員たちが「よこせ」とでもいうかのように、みんなで手を差し出す。隣のオフィスの人が時計を指さして残業の愚痴を言うように顔をしかめると、こちらも「同じだよ」と、肩をすくめて返した。そんなやり取りのたびに笑いが起こった。

僕らはお互いを知らないまま、仕事中の疲れを癒す奇妙なコミュニケーションを楽しんでいた。

ある日、隣のオフィスで激しい喧嘩が勃発した。どうやら何かの書類で重大な不備があり、それが誰のせいかということで揉めている人たちがいるようだった。いつもやり取りをしている人たちはおろおろしたり、黙ってPCに向かっていたり、気まずい時間を過ごしているようだった。

書類をパンパンと叩き、指を差し、地団駄を踏む。身振り手振りが大きくなり、僕らはこちらのオフィスで緊張しながらそれを見つめる。まるでひとつのオフィスで起こった事件のようで、不思議な時間だった。

翌日、彼らが気まずそうにこちらを見てきたので、僕は「大丈夫?」というジェスチャーを送った。

すると彼らは肩をすくめ、申し訳なさそうな苦笑いを浮かべた。

そうして、僕らはますます仲間意識のようなものを強めていった。

けれど不思議なことに、外で彼らとばったり会っても、お互いに黙礼をするのみで話したりはしなかった。なんとなく、それはしない方がいいような感じがしていたのだ。それは他の同僚たちも同じらしく、近隣での目撃情報などを話題に出すことはあっても、「話をした」と言い出すやつは誰もいなかった。

おそらく「この遊びの共通ルール」として、暗黙の了解事項となっていたのだろう。

ある日の帰り道、コンビニで偶然、隣のオフィスの彼女と遭遇した。

いつも窓越しに笑い合っている相手だったが、その時は、お互い「あっ」というように口を開いてから、軽く微笑み合ってすれ違うのみにとどまった。だから僕は彼女の声すら知らなかったのだ。

それから数か月が過ぎ、季節が変わった。

ある日、彼女が神妙な顔持ちで窓際にやって来て、手を振った後、A4のコピー用紙を広げて見せた。

そこには「引っ越しします」と書かれていた。彼女の周りにはこれまで何度となくやり取りをしてきたお馴染みの連中もいて、さみしそうな表情でこちらを見ている。

僕は仕事中の同僚の肩を叩き「おい、あれ」と、指差した。

「え!」

同僚はまた別の同僚を呼んできて、みんなで窓際に立ち、「引っ越しします」の紙を呆然と見つめる。

僕ははっとして、「どこへ?」とジェスチャーしたが、彼女は寂しげに首を振った。遠いということだろうか。

翌日以降、隣のオフィスは窓のカーテンが閉められ、彼女らの姿を見ることはなくなった。

清掃業者らしき制服の人々がカーテンを開けて窓を拭いていたのは見たが、すでにオフィスは空っぽになっていた。

数週間後、新しい会社がそのオフィスに入居したが、彼らはブラインドを設置して、それを閉めっぱなしにしていた。

確かに、普通のオフィスといったらそういうものだろう。

それでも、がっかりしている僕は、あの何気ないコミュニケーションをとても楽しんでいたのだとなと、今さら実感する。

彼女たちの名前も、声も、会社名も知らないまま終わったが、僕らは確かに友情を築いていたのだと思う。少なくとも僕はそう感じていた。

そして、ある日、僕らの会社も別のビルへの異動が決まった。

僕は荷物をまとめながら、ふと思う。もしまた同じように窓越しのコミュニケーションが始まったら、今度は思い切って外でも挨拶してみようかな。

そんな奇跡が起こる可能性はかなり低いけれど、「もしも」と想像すると少しわくわくした。

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