その日、私はいつものように仕事帰りにスーパーに立ち寄った。
時計の針は夜九時少し前を指し、閉店間近の合図である「蛍の光」が静かに流れている。
慌てて食材を選んでいると、野菜売り場の端に、見慣れない小さな看板が目に入った。
『地下フロア行きはこちら』
地下なんてこのスーパーにあっただろうか。あらかた食材も選んだし、ちらっと見るだけと自分に言い聞かせ、矢印の方向へ小走りで進む。
そこには古いエレベーターがあった。
階段じゃなくて、エレベーターか。
少し躊躇したが好奇心には勝てず、私はエレベーターに乗り込み、「B1」とだけ書かれたボタンを押した。
扉が静かに閉まり、エレベーターはゆっくりと下降し始める。
やがて扉が開くと、そこには薄暗い空間が広がっていた。
普段利用しているスーパーに地下フロアがあったなんて、初めて知った。
照明は淡く青白く、壁には不思議な模様が描かれている。もしかして、バックヤードに迷い込んでしまったのか。早く戻って会計を済ませないと……。
しかし、棚には見たことのない商品が並んでいる。
『透明なリンゴ』
『音を奏でるパン』
『記憶を蘇らせるミルク』
私は戸惑いながらも、一つの商品に惹きつけられた。
それは『過去を見るレンズ』という小さな眼鏡だった。
好奇心に負け、それを手に取ってそっとレンズの中をのぞき込む。すると、目の前に鮮明な過去の映像が映し出された。
それは数年前に亡くなった祖母が、私を優しく抱きしめている姿だった。
心の奥底で眠っていた思い出が鮮やかに蘇り、私は懐かしさで胸がいっぱいになった。
しかし同時に、なぜこんなものがあるのかという恐怖心も膨らんでいく。ここはやはりおかしい。
その時、奥から店員らしき人物がゆっくり近づいてきた。
その人の顔はどこかぼやけていて、焦点が定まらない。まるですりガラスの向こうのようにぼやけている。
彼は私に小声で囁いた。
「ここで手に入る商品はすべて、代償が必要です。慎重にお選びください。」
私はその言葉に背筋が凍りつき、慌てて眼鏡を棚に戻し、エレベーターに駆け戻った。
急いで地上に戻り、会計を済ませる。少し迷惑そうな店員に「ギリギリにすみませんでした」と声をかけ、店を出る。
翌日、私はあの地下フロアのことが頭から離れず、再びスーパーを訪れた。
だが、そこには昨日の地下への入口の痕跡はなかった。あの古いエレベーターがあった辺りはただの壁だ。
店員に尋ねても、「当店に地下はございません」と言われるだけだった。
しかし、ある日、私はふとした瞬間に『過去を見るレンズ』がバッグの中に入っていることに気付いた。
あの時、確かに棚に戻したはずなのに。
迷った末、私は再びレンズをのぞいてしまった。すると今度は、過去ではなく未来の映像が映し出された。未来だと分かったのは、自分の姿が歳をとっていたからだ。その自分が悲しげに泣いている。
「どうして……?」
混乱する中、再びあの地下の店員の声が耳元で囁いた。
「代償は未来の記憶ですよ。あなたはそれを選んだのです」
呆然としていると、そのレンズは煙のように消えてしまった。
それ以来、私は未来に何が起きるのかを常に恐れるようになった。何気ない日常も、些細な出来事も、不安の種となり心に影を落とした。
どうしてもこの状況を変えたくて、何度となくあのスーパーの地下フロアを探したが、二度と見つからなかった。
あの地下フロアは一体なんだったのだろうか。ほんの一瞬懐かしい気持ちを味わった代償が、未来に怯え続ける日々だったとしたら、あまりにも釣り合わない。
あの空間にいたのは、悪霊とか悪魔とか、そういった類の、よくないものだったに違いないと、今ではそう思っている。
好奇心は猫をも殺すというのは、本当なのだ。
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