#287 洗面器の中の声

ちいさな物語

「うわっ、なんでお前、洗面器かぶってんだよ!」

深夜のコンビニ、俺の目の前に現れたのは大学の友人・拓也だった。いつもは理論派で冷静沈着。課題提出前でもテンパることのない男が、堂々と洗面器を頭にかぶって突っ立っていた。

「え? お前、何やってんの?」

「妖怪だよ」

「は?」

「洗面器妖怪にされたんだ」

何を言っているのかまったくわからない。しかもその顔は真剣で、冗談の気配はない。

聞けば、昨夜、課題の追い込みで徹夜していた拓也の部屋で、突如、電気が落ちたらしい。そして暗闇の中、低い声が聞こえたという。

「洗面器をかぶれ……さもなくば……」

直後、部屋の棚から落ちてきた洗面器が彼の頭にガコンとはまったという。外そうとしても外れず、今に至るとのこと。

「……で、ずっとかぶってるのか?」

「外れないんだ。物理的に。引っ張っても、石鹸で滑らせてもダメだった」

そう言って、実際に洗面器の縁を握って引っ張って見せる拓也。だが、びくともしない。

「中から声もする」

「どんな?」

「『早く仲間を増やせ』とか、『水滴がたれてる、拭け』とか、『今夜は鍋にしろ』とか。」

妖怪というより、家事と生活にうるさい指導員のようだった。

「たぶん、妖怪っていうか、生活改善型の憑き物だよな、それ」

「黙れ。俺は呪われてるんだ」

そのとき、彼が洗面器をぽんと叩いた。

「おい、痛いじゃないか!」

本当に洗面器から声がした。

「……マジで喋ってんのかよ」

「呪いだって言っただろ?」

なんともバカバカしいが、現に拓也の頭からは明らかに声が響いている。

その後も彼は洗面器妖怪と共に生活を続けた。洗面器の声に従い、部屋を片づけ、毎日自炊し、早寝早起きを守り、買い物リストも管理されていた。

驚いたことに、みるみるうちに拓也の生活レベルは向上していった。もともと優秀だったが、成績はさらに上がり、プレゼンは以前より堂々たるものになった。洗面器が喋るという異常さを除けば、人格者にすら見えてきた。

ある日、彼がつぶやいた。

「洗面器――案外悪くない」

そのうち、彼の存在はSNSで拡散され始めた。

《洗面器男子、激変ビフォーアフター》

《洗面器妖怪との共生生活、1か月の記録》

さらには健康雑誌に「洗面器と暮らす! 自律と調和のライフハック」として特集され、しまいには『洗面器妖怪の教え』というエッセイ本まで出版されてしまった。

俺は尋ねた。

「お前、これもう呪いって言うのは無理があるだろ?」

「完全に悪とはいえないが……しかし俺は被害者だ」

そして、ついにテレビ出演まで果たした。洗面器にはモザイクがかけられ、声は合成されていたが、見る人が見ればすぐに彼だとわかった。

「左肩が下がっている、姿勢を正せ」

「今夜は根菜の煮物がいい。冷蔵庫の大根が余っているはずだ」

完全に“自立支援型妖怪”としての地位を確立していた。

ただし、唯一の問題は――。

「洗えないんだ、これ。中が濡れると怒るから」

風呂では首から上をビニール袋で包み、タオルで拭くだけ。そこは人知れず苦労していた。

そんなある日、彼の家を訪ねると、いつも洗面器の中から響く声が、聞こえなかった。

「今日は……静かだな」

「うん。寝てるらしい」

「妖怪が寝るのかよ」

「『メンテナンスだ』って言ってた。年に一度くらいは黙るんだ」

そのとき、俺はふと聞いてみた。

「なあ、もし洗面器が取れるとしたら、どうする?」

少し考えてから、彼は答えた。

「……まあ、取れたらそれはそれでいい。でもな」

彼は小さく笑いながら言った。

「洗面器かぶってる方が、なんか自分でいられる気がするんだよな」

今も拓也は洗面器をかぶって暮らしている。

それを呪いと呼ぶか、進化と呼ぶかは、人それぞれだろう。けれど、彼は間違いなく、何かを得た。そして何かを失った。こういった出来事は、洗面器に呪われなくても、多くの人にさまざまな形で訪れる。

そして今日もまた、洗面器の中から聞こえてくる。

「玄関の靴をそろえろ。玄関が汚れていると、生活が崩れる元になる」

その声に従い、彼はしっかり靴をそろえ、大学へと向かっていった。

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