それは、ひっそりと静まり返った夜の博物館で起きた。
展示室の奥、始祖鳥の骨格標本が眠るガラスケースの前を、夜警の坂本は巡回していた。
ほんの僅かな違和感――空気の流れがわずかに変わったかのような感覚が、彼の足を止めさせた。
懐中電灯の光を向けると、ガラスケースにかすかなひびが走っているのが見えた。
妙なひびの入り方だ。まるで中から押し広げたような――そんな不自然さがあった。
「パキッ」という音が室内に響き、ひびは一気にケース全体に走った。直後、ガラスケースがはじけ飛び、驚いた坂本は反射的に目をつぶった――
気づくと、そこにあったはずの始祖鳥の骨格標本は、忽然と姿を消していた。
驚きと困惑で後ずさる坂本。ケースの中に残っていたのは、薄く白い羽毛のようなものと、ガラスの破片だけ。
坂本から連絡を受けた館長の白石が、展示室へ向かった。確かに、始祖鳥の標本は消えている。
「まさか、盗難……? いや、あり得ない。入口の警報も、監視カメラも、何も反応していない。それにこれだけが盗難に遭うなんて……」
始祖鳥の骨格標本はレプリカだ。館内にはもっと値打ちのあるものが、いくらかある。
不安を抱きつつ監視映像を確認する。画面に映るのは、夜の展示室。誰もいないはずの中で、ガラスが不自然に割れ、標本がかすかな光に包まれている不思議な映像だった。
念のため、館内を捜索すると、屋上で鳥のような奇妙な足跡を見つけた。
足跡は一直線に続き、途中から不意に消えている。まるで、助走し、空へ飛び立ったように。
「飛んだ……のか?」
白石は屋上で冬の空を仰ぐ。澄み切った夜空の向こうを、ふと想像する。
始祖鳥――あの生物が、本当は夜ごと化石から目を覚まし、遥かな空を飛んでいるとしたら。
人間たちが「始祖鳥は飛べたかどうか」と議論するその間に、彼らはずっと、翼を広げていたのではないか。
もし、標本や化石たちが「眠っている」だけで、時が満ちた夜にそっと目を覚ますのだとしたら。
始祖鳥は確かに――この夜、博物館の屋根を越えて、誰にも見つからない高みを目指して羽ばたいたのだろう。
もしかすると今も、星と星の間を縫うように、自由な空を旅しているのかもしれない。
そう思った瞬間、館長の足元にふわりと舞い落ちる、一本の細い羽根。
白石はそっとそれを手に取り、優しく微笑んだ。
「――始祖鳥は、やっぱり飛べたんだ」
そう呟きながら、彼は展示室の静けさに、新しい物語の余韻を残した。
翌日、ガラスケースはすっかり元に戻っていた。古色を帯びた始祖鳥の骨格標本も。
今夜もまた、誰かの夢の中で、始祖鳥は翼を広げているかもしれない。
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