#312 空のリモコン

ちいさな物語

その朝、窓の外には青空が広がっていた。夜の間に雨が降っていたはずだが、地面は乾ききっていて、木々の葉もさらさらと風に鳴っている。

広瀬尚人は、いつもより軽い足取りで階段を降り、テレビのリモコンを手に取った――が、実はそれはテレビのリモコンではなかった。手にしたものは、どこにも見たことのない奇妙な形をしていた。

「なんだこれ?」

金属でもプラスチックでもない、ややしっとりとした質感。チャンネルのボタンの代わりに、天気のアイコンが並んでいる。

「晴れ」「曇り」「雨」「雪」「雷」「台風」――そして「無風」。

裏面にはこう書かれていた。

「空に影響を与える機器です。個人の責任にてご使用ください」

尚人は笑って、台所のテーブルにそれを放った。玩具か、何かのジョークだろう。

数時間後、ふいにリモコンのことを思い出して、特に何の意味もなく「曇り」のボタンを押してみた。

――空がすぐに陰った。

雲はカーテンを引いたように、さっきまでの青空をすっかり覆い隠し、肌寒い風が吹いてきた。

ん? 偶然かな?

そう思って次に「雷」のボタンを押してみる。

すぐに厚い雲の中で雷が鳴りだした。

遠くの方で、ごろごろと雷鳴が響く。どこかに落ちたのか、電灯が一瞬だけチカッと揺れた。

尚人は言葉を失った。

これが偶然――なわけがない。もし本物なら、このリモコンの使用は気をつけないといけないかもしれない。

最初は自宅周辺の天気を「晴れ」に保ち、洗濯物を確実に乾かした。その次は「雨」を夜中にだけ降らせて、庭の花に水をやった。

地域全体の気象ニュースを観察した結果、リモコンの影響範囲は半径およそ3km以内。

どんなに過激な天気でも、ボタンを長押ししなければ1時間程度で自然に戻ることがわかった。逆に長押しすると効果が長くなる。

それは、空を私物化する力だった。

尚人は次第にその力に慣れ、「今日は晴れがいいな」「少し涼しくしたい」と気軽にボタンを押すようになってしまった。

だが、異変は起きた。

ある日、会社の同僚が話していた。

「ここんとこ、やたら局地的な天気が多くない? なんか嫌な感じだよね」

「異常気象ってやつ? なんか怖い」

確かに、隣町は大雨で被害が出たのに、自分の町だけカラッと晴れていた。

尚人の“操作”が、結果として気圧のバランスを崩していたのかもしれなかった。

けれど、天気の操作はあまりにも便利でもう止められなかった。

朝、曇っていたら「晴れ」のボタンを押さずにはいられない。風が強すぎれば、即座に「無風」を押す。

もはや天気は、「自分の感情の延長」だった。

そして、ある日の午後。尚人がいつものように「晴れ」のボタンを押したとき、リモコンが割れた。カチ、と乾いた音がして、リモコンの表面がひび割れたのだ。

同時に、空に黒い裂け目のような雲が走った。

風が強くなり、突如として空の色が変わる。気象庁の緊急速報がスマートフォンに表示された。

「局地的な低気圧の異常活性。落雷と突風に注意」

だが、尚人はわかっていた。これは、自分が“壊した”のだと。

幸い空は1時間もすると元に戻ったが、リモコンはそれ以降、反応しなくなった。どのボタンを押しても、天気は変わらない。

それどころか、尚人の住む町だけが不自然に不安定になっていった。

晴れた日の急な雷雨、真夏に降る大きなひょう、異常なまでの長雨。

尚人は、それを見つめるしかなかった。おそらく尚人の操作によるひずみを空が自動修正しているのだろう。

尚人は引っ越した。

逃げたともいえる。自分が壊してしまった空に毎日悩まされるのは精神的につらかった。引っ越しのとき、壊れたリモコンはいつの間にか消えていた。

新しい町では、普通の空が広がっていた。天気は気まぐれで、予報も当たらない。これが普通だ。

傘を持って出る日もあるし、服が濡れることもある。

でも、それがよかった。空は、コントロールするものではなく、受け入れるものだったのだ。

ある日、町の掲示板に貼り紙があった。

「ここ数日、天気の急変が頻発しています。急な雨風にご注意ください」

尚人は、空を見上げた。リモコンは使っていない。けれど、雲の流れが、どこか既視感のある動きをしていた。

誰かが、あのリモコンを使ったのかもしれない。

風がふわりと吹き、尚人の髪を揺らした。

天気は今日も、少しだけ気まぐれだった。けれど、それは誰かの“心模様”が、空に映っているのかもしれない。

尚人は鞄から折りたたみ傘を出して開いた。

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