#316 刻印を破る夜

ちいさな物語

もし命と引き換えに望むものが手に入ると言われたら、あなたはどうしますか?

その選択を迫られた、あの日のことを今でも覚えています。

人生のどん底にいたときです。

仕事を失い、借金は膨らみ、家族にも見放され、すべてが終わったような気がしていました。

その日、どうしようもない気持ちで、ふらりと街を歩いていました。気がつくと、薄暗い路地裏の奥深くに立っていて、目の前には小さな店が一軒だけありました。

不思議な店でした。看板は薄汚れて読めない、窓にはカーテンが引かれており、中の様子は一切わからない。けれど、なぜかそのドアを開けずにはいられなかったんです。

やけに重々しいドアベルの音でした。

中は薄暗く、古ぼけた家具と棚に奇妙な小物が並んでいました。なんとなく禍々しく、何かの写真で見た拷問道具のようにも見えました。

奥のカウンターに座っていたのは、黒いスーツに身を包んだ男でした。見たこともないような整った容姿をしており、魅惑的な笑みを浮かべてこちらをじっと見ていました。人間ではないかもしれない。私は非現実的な妄想に取り憑かれたのです。

「欲しいものがあるなら、言ってごらん」

男の声は低く、甘く、妙に耳に残る響きがありました。私は思わず、「すべてをやり直したい」と言ってしまいました。過去の失敗をなかったことにして、もう一度やり直せたら、と。

男は静かに頷きました。そして、こう言ったんです。

「望みは叶えよう。ただし、その代わり――命を差し出してもらう」

その目は本気でした。冗談じゃない――と、一瞬思ったものの、このまま生きていて一体何になるのだろうかという疑問が浮かびました。どうせもう失うものなんて何もない。それなら別にやり直してみてもいいんじゃないだろうか。

そして――男の差し出す契約書にサインしてしまったんです。

その瞬間、景色が一変しました。気がつけば、私は若いころの自分に戻っていて、失ったはずの仕事も家族もすべて元通りでした。幼い娘と息子、若く美しい妻、会社での信用も元通りです。

二度目なので、どこで失敗したのか、すべてわかっています。私はことさら慎重に日々を過ごしました。酒も煙草もやめて、ギャンブルにも手を出しません。若い女性に声をかけられても、決して誘いにはのりませんでした。これはすべて前回失敗したところです。

その代わりに、休みの日は子どもたちと遊びに出かけ、妻の誕生日には花とプレゼントを欠かしませんでした。

驚くほど人生は好転していきました。

けれど、手首には奇妙な刻印が浮かび上がり、それが日に日に濃くなっていくんです。

最初は気にしないようにしていましたが、刻印が濃くなるにつれ、不安が募っていきました。そんなある晩、再びあの店にいた男が夢に現れました。

「期限が近づいている。そろそろ迎えに行く」

目が覚めた私は恐怖に駆られ、あれから一度も見ていないあの店を探しました。あの男が私を迎えに行くと言っていたので、私の方から訪れても特に不都合はないはず。

その予想は当たったようで、私はあっさりとあの店を見つけることができました。

「頼む。契約を破棄させてくれ」

男は冷たく笑いました。

「契約を破ることはできない。契約こそ絶対だ」

すっと冷たい汗が背中を流れました。

「も、もう少し、時間をくれ!」

私は返事も待たず店を飛び出しました。背後から、男の笑い声が聞こえていました。

とにかく、この刻印を消せないか。

必死に方法を探しましたが、どんな薬品を使っても、刻印は消えませんでした。

絶望しかけていた時、古書店の片隅で偶然、一冊の古い本を見つけました。『悪魔との契約を破る法』というタイトルでした。

その本には、「契約の刻印は自分の手で消すことはできない。しかし、刻印を施した悪魔自身に消させる方法がある」と書かれていました。

方法は、契約の文言に隠された矛盾を悪魔に認めさせることでした。私は契約書を徹底的に読み直し、細かな文言を確認しました。そして、ある一文に目を留めました。

「契約者は過去に戻り、元の人生を生きる」

「元の人生」――これが矛盾ではないかと思いました。

なぜなら私は「元の人生」を生きているのではなく、過去のある時点に戻って、新しい人生を生きているからです。家族も、仕事も失っていません。「いい意味で」ですが、元の人生とはかけ離れています。

次の晩、私は再びあの店を訪れました。

「契約に違反がある。だから、この契約は成立していない」

男は眉をひそめ、苦笑しました。

「違反? やり直したいといったのは、そっちだろう」

「確かに私は『やり直したい』と言ったが、契約書には『元の人生』と書かれている。私は『元の人生』は送っていない。これは契約通りではない」

男は顔を歪め、沈黙しました。長い静寂が流れ、やがて男は舌打ちしました。

「――確かにその通りだ」

男が指を鳴らすと、私の手首の刻印は嘘のように消えました。男は険しい顔で私を睨みました。

「覚えていろ。次はないぞ」

男が姿を消すと、私は安堵で膝をつきました。

やっと命の不安から解放されたのです。その日から私は、与えられた新しい人生を必死に生きることにしました。

引き続き仕事に励み、家族との関係を大切にし、小さな幸せを噛み締める日々を送りました。

そして、再びあの路地裏を通りかかりましたが、あの小さな店を見つけることは一度もありませんでした。まるで最初から存在しなかったかのように。

ひょっとしたら私は悪魔たちのブラックリストにでも載ったのかもしれません。そう考えると少しおもしろくも感じます。

ただ一つ、あの男の最後の言葉だけが耳に残っていました。

「次はないぞ」

だから私は、二度と人生を踏み外さないように懸命に生きることにしたのです。

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