#320 天使がうちに降りてきた

ちいさな物語

雲間から一筋の光が降りてきたとき、なんとなく予感があったんだ。「何かが始まるな」ってね。

それは、いつもの昼下がりだった。空が急に暗くなったかと思ったら、雲の隙間からまばゆい光が差し込んできた。その光の中に、何かがいた。いや、誰かと言うべきか?

上から降りてきたのは翼の生えた男だった。いや、後で聞いたら、天使だとか言ってたけど、どう見ても翼以外はただの青年だった。しかし全裸。しかも無駄に騒がしい。このときはただ「変態だったらどうしよう」という気持ちでいっぱいで、刺激しないように青年の言うことすべてに頷いていた。

「あ、そうだ。すみません。服、持ってます?」

彼は無駄に翼をぱたぱたさせながら、軽い調子で言う。なんでこんなにフランクなんだろう。

仕方なく、俺は近くのファストファッションの大型店舗で適当な服を買ってやった。

なぜか気に入ったようで、目をキラキラさせながら服を引っ張ったり、その場で回って見せたりした。翼は消すこともできるようで、その姿は本当にただの大学生のような感じになっている。

「おい、後で金払えよ」

「ありがとう! いやー、人間は服を着るのが礼儀の基本ですからね。僕は天使だからよくわからなくて、この間は警察に捕まっちゃいました」

天使は機嫌のいいチャウチャウみたいな顔で目を細めてニコニコしている。とんでもないのに関わってしまったかもしれない。

「はあ……のどが乾いたなぁ」

今度はちらりちらりと俺の方を見てくる。図々しい。一応「あー、じゃあ、うちに来るか?」と、声をかけた。

天使は顔を輝かせて頷いている。仕方なく家に連れて帰ることにした。

家に着くと、天使は無遠慮に部屋を見回し始めた。

「へぇ、人間ってこういう暮らしなんだ。ずいぶんと……狭苦しいですね」

なんか腹が立つ。こっちは突然現れた自称天使を慈悲で招いてやったのに。

「ところで天使様はなんで地上に来たんだ?」

俺が訊くと、天使は「ぷはっ」と麦茶を飲み干してから、真面目な顔になった。

「実はですね、人間界で迷子になった天使がいるらしくて、探しに来たんですよ」

迷子? 天使が?

「そいつは、どんな奴なんだ?」

「それが、よくわからないんです。人間に溶け込んでるようで、本人の自覚もないらしくて」

そんなことあるか?

いよいよ面倒くさいことに巻き込まれたもんだと思いつつも、迷子と聞くと無視できない。その迷子の天使さえ見つかれば、この男も早く帰ってくれるだろう。

「じゃあ、茶なんか飲んでる暇ないだろ。さっさと探せよ」

「ありがとうございます! よろしくお願いします!」

「え? 俺も探すの?」

それから俺たちは町を歩き回り、奇妙な質問を繰り返した。

「最近、自分が天使かもしれないって思う瞬間とかありますか?」

そんな質問、まともに答える人なんていない。怪訝そうな顔をしてさっと遠ざかっていく。当然、成果はゼロだった。

そんな無意味な日々が一週間も続いたころ、俺はさすがに疲れ果てていた。

「あのさ、本当にここに天使なんているのか? 情報は確かなのか」

すると天使は、少し困った顔をして言った。

「人間界に降りてきた天使は、人間と深く触れ合ってしまうと、だんだん人間と同化してしまうんです」

「え? じゃあ、どうやって見つけるんだよ?」

「えーっと……どうやって見つけたらいいと思います?」

ますます頭が痛くなった。いつの間にか天使は我が家で馴染んでしまい、家事まで手伝うようになっていた。俺の生活は、この軽薄な天使に完全に侵食されていた。

そんなある夜、天使がぽつりと言った。

「もし見つからなかったら、僕も人間になっちゃうかもしれません」

「……なんでそうなるんだ」

天使は静かに笑った。

「正直言うと、悪くないと思います。人間って、案外いいものです」

彼が天界へ帰らないなら、俺はずっと面倒を見なくちゃいけないのか。冗談じゃない。

うんざりした俺だったが、天使はずいぶんと機嫌がいいようで、ニコニコしてこちらを見ている。

そんな日々が一ヶ月ほど続いたある日、再び雲が割れ、まばゆい光が差し込んできた。今度は女性の天使が降りてきた。残念ながら全裸ではない。これはどういうことだ? 流れ的に全裸であるべきでは?

「見つけました! あなたが行方不明の天使ですね?」

女性の天使は迷うことなくこちらへ飛んできた。俺はギョッとして隣を見ると、例の天使は慌てて首を振った。

「違います! 僕は探しに来た方の天使で、迷子じゃありません!」

「いいえ、あなたも迷子です。あなたが探していた迷子の天使はもう見つかって天界にいます。あなたにも連絡があったはずですよ?」

天使は驚いたように目を見開いている。

「――落ち着いて。自覚してください。連絡がわからなかったということは、遠方の天使の声が聞こえにくくなっていますね。あなたの今の姿、人間そのものですよ」

そういえば、天使らしさがすっかりなくなっているように見える。最近は翼を広げている姿すら見ていない。

天使は戸惑ったように自分の体を見た。

「うーん、いつの間に……?」

女性の天使は優しく微笑んだ。

「人間界に入り込んでしまった証拠です。戻る気がないなら、今は無理に連れて帰りませんが、悲しい思いをするのはあなたですよ」

なぜか女性の天使は俺をチラリと見る。天使も困惑したまま俺を見た。

「人間と天使はずっと一緒にはいられないですからね」

天使はしょんぼりとつぶやいた。

「ええ。生きる時間が違いすぎます。一緒に戻りましょう」

天使はまだ俺をじっと見ている。耐えかねて口を開いた。

「戻った方がいいんじゃねえの?」

天使は黙って、渋々というていで頷いた。

女天使は呆れたように首を振る。そして俺に向かって微笑んだ。

「天使はすぐに人間に恋をして迷子になってしまいます。次からは天使を見かけても優しくしないでやってください」

「はぁ?」

俺が悪いのかよ。いや、恋って何?

「また会いに来ますね」

天使が俺の手をぐいと握った。

「いや、来なくていいから」

天使がぐっと唇を噛み締める。そしてキッと顔を上げた。

「洋服のお金を払いに来ますから」

今度は俺の方が言葉に詰まる。ファストファッションとはいえ、一式そろえたら馬鹿にできない金額だった。それに天使のくせに食費もかかった。

「とにかく。お願いしますよ」

女性の天使は俺達の間に割って入るようにして俺に念押しをすると、天使の手を引き空へと帰って行った。

「本当にまた来るんだろうか……」

俺はいつまでも空を見上げて呆然としていた。そして、また来てくれてもいいかなという気がしていることに気づいた。

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