#327 赤いラインの傘

ちいさな物語

昨日の夕方のことだ。

ちょっと急いでいて、コンビニの傘立てに置いておいた自分の黒い傘を慌てて掴んで帰ったんだ。

家に着いて玄関で傘を開いて確かめてみて驚いたよ。僕の傘じゃなくて、よく似た赤いラインが入ったものだったんだ。

「やっちゃったな」と思ったけど、雨が止んでから届けに行けばいいやと思って、その日は傘を玄関に置いたまま寝てしまったんだ。

翌朝、不思議なことが起きた。夢の中で知らない誰かの記憶を見ていたような気がして目が覚めたんだ。それは僕のものじゃない、誰か別の人の記憶だった。

曇った空の下、見知らぬ道を歩いていた。その手には、赤いラインの入った傘が握られている。誰かを待っている様子だが、待ち人はなかなか来ない。

そんな記憶が、まるで自分の経験のように鮮やかに残っている。

少し不気味に思いながら、僕は間違えて持ち出してしまった傘を持って、いつものように仕事へ向かった。

ところが、予報では降らないはずの雨が、突然降り出した。

申し訳ないと思いつつ、返すつもりで持っていた赤いラインの傘を拝借し、歩き出す。

雨音が傘を叩くと、また奇妙な感覚が蘇った。歩きながら次々と僕の頭に流れ込んでくるのは、僕が知らない誰かの記憶だった。

その記憶の主は、優しい笑顔をした女性だった。

彼女は傘を差し、雨の降る街角で誰かを待っている。だが待ち人はいつも現れず、彼女は寂しそうに傘を畳んで家へ帰る。

家に戻ると、僕は不安になって傘をよく調べてみた。だが、見た目はごく普通の傘で何も異常はなかった。

「まさかね……」

僕は自分を落ち着かせるために早めに寝ることにしたが、その夜もまた別の記憶が流れ込んだ。

今度は、スーツ姿の男性だった。彼は雨の中、駅前で誰かを待っている。やがて雨足が強まり、濡れたまま寂しそうに帰っていった。

翌日、僕はこのままではおかしくなると思い、傘を持って元のコンビニへ向かった。

店員に尋ねても傘の持ち主は分からないという。仕方なく傘立てに戻そうとした瞬間、僕は強烈なめまいに襲われた。

傘を握った瞬間、記憶が鮮烈に頭を満たした。次々に記憶が流れ込み、僕はなぜか傘を手放せなくなってしまった。

記憶の中で人々は皆、雨の日に待ち人を待っていた。だが誰も待ち人に会えず、悲しげに傘を握りしめて帰っていく。

まるで、この傘は誰かを待ち続ける人たちの記憶を溜め込んでいるかのようだった。

僕は意を決して、この記憶を終わらせるため、傘の真の持ち主を探そうと街を歩き回った。

やがて、ふと立ち止まった交差点で一人の老人に出会った。その老人は、赤いラインの入った傘をじっと見て、僕に話しかけてきた。

「その傘――ずいぶんと変わった物を持っているな」

驚いて老人を見ると、彼はおもしろいものを見つけたとばかりに好奇心いっぱいの目で傘を見ている。表情だけなら子供みたいだ。

「その傘はね、わかりやすく言うと付喪神さ」

「つくも……なんですか?」

全然わかりやすくない。

「長い間使われた物には魂が宿るんだ。その傘もそのようだね」

老人は頷きながら言った。しかし、そんなに古い物には見えないが……。

「どうやらその傘は『自分の意思』で、いろんな人の手に渡って、いろんな人の記憶を集めているらしいな」

「わかるんですか!」

まだ僕はこの傘を持ったときに起こる不思議な現象について話していない。

「その傘は君の記憶を欲しているようだな」

僕ははっとした。そういえば、傘を手放そうとするたびになんらかの妨害に遭っていた気がする。

「この傘、どうすればいいんでしょう」

老人は静かに微笑んだ。

「気にすることはないさ。そう、悪さをするような気配はない。満足したら知らない間に姿を消すだけだ」

僕はしばらく傘を見つめて考えた。ちょっと気持ち悪いが、手放そうとしても無理ならば仕方ないだろう。

「ところで、おじいさんは何者なんですか? どうしてそんなことがわかるんです?」

老人はおかしそうに笑った。

「そういうことを仕事にしていたんだよ。もう引退してるがな」

「お寺の住職さんとか、神社の宮司さんとか、そういうお仕事ですか?」

「いやいや、もっと俗っぽいやつさ。拝み屋とか、除霊師とか、霊能者とか、みんな好き放題呼びよる」

老人は笑いながらどこかへ行ってしまった。僕は傘を持ったまま、取り残された。わかったような、わからないような……。

「――じゃあ、帰るか」

なんとなく傘に向かって声をかける。もちろん返事などない。

誰かを待ち続けた人々の寂しさを集めている傘。たぶん僕が雨の日に誰かに約束をすっぽかされたら、この傘はその記憶を持って僕の前から姿を消すんだろう。

一体それの何が楽しいのか――。

僕はうっかりしたふりをして、傘の先端を軽く蹴飛ばした。

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