#351 記憶のスープ

ちいさな物語

閉店間際の店に、ずぶ濡れの男が飛び込んできたんだ。ボロボロのスーツなのに妙に穏やかな笑み――あんな客、初めてだったよ。

その日は特に客足も少なく、雨も強くなってきたから、早めに店を閉めようと思って、外の看板を片付けようとしたその時だった。

ガラガラッと音を立てて戸が開き、強い雨と一緒に男が飛び込んできた。

「悪いね、突然で。でも、どうしてもここに来たかったんだ」

年齢は30代後半くらいか。スーツはよれよれで、靴も泥まみれ。だが不思議なことに、顔はやけに穏やかで、うっすらと笑みを浮かべている。

一瞬、断ろうかとも思ったが、彼の雰囲気に押されて何も言えず、ただ黙ってしまった。濡れた足跡が店内に点々と残ったが、不思議と不快な気持ちにはならなかった。似たような光景を昔見たような、不思議な気持ちに陥っていた。

「あのさ……まだスープ、ある?」

男がぽつりと言った。仕方なく、まだ片付けていなかった鍋を火にかけて、スープを温めた。店で人気のメニューで、このスープを目的に来る客もめずらしくない。

男はカウンターに腰掛けてそれを眺めると、懐かしそうに言った。

「懐かしいな……。この匂いだ。久々にこれを食べたかったんだ」

聞けば、男は以前この店で働いていたのだと言う。

だけどおかしい。開店してもう15年になるが、そんな従業員はいなかったはずだ。それに残念ながらスープのレシピも変更されている。

「覚えてないのか? 俺、ケンジだよ」

男はスープを一口すすりながら、名前まで言い出した。

「悪いが、知らないな……」

俺が首をひねると、ケンジと名乗る男は笑った。

「そうだよな……俺は消されたんだから」

その瞬間、空気がひんやりと冷えたように感じた。

「消された?」

ケンジは首を横に振りながら、優しい眼差しで俺を見つめた。

「そうだよ。だけど、ここにはかつて記憶を消すスープがあったんだ。お前さんが昔作ったスープだよ。なんでも、お婆さんから教わったレシピだとか……。しかし、これは? さすがにレシピを少し変更しているな」

確かに祖母は料理上手で、体調を整えるお茶とか、夏バテに効く汁物だとか、民間療法的なレシピをたくさん知っていた。自分が料理の道を志したのもその影響がある。しかし「記憶を消す」というのは、ちょっと料理からは逸脱した効能ではないか。

「馬鹿言うな、そんな変なもの……」

俺が反論しようとしたが、ケンジの目を見ていると、奇妙な映像が脳裏に浮かび上がった。それは厨房に俺とこのケンジが立ち、鍋をかき混ぜている姿。

厨房には他にも知らない人間が何人か立っている。おかしい。そんな記憶はない。

「昔、この店には嫌な記憶を忘れさせるスープがあるって噂になった。みんな辛いことがあると、ここに食べに来てスッキリした表情で帰っていったものさ」

ケンジの声は静かだったが、胸を刺すような響きがあった。

「俺もその一人だったし、みんなも賄いでそのスープを食べすぎて、ちょっとおかしなことになったんだ。あんたもだよ。気づけば俺自身の存在がこの店の全員の記憶から消えてたんだ」

「そ、そんな馬鹿な話があるかよ……」

信じられない話だった。だが、なぜか胸がざわついた。この店は長くやってきたが、なんとなく記憶にないことがたくさんある。「ドアの横の傷はいつ付いたんだろう」とか、「この食器はいつ買ったんだっけ?」とか、どれも些細なことで気にも留めなかった。

それに、言われてみれば、俺は開店当時、この店で誰かと一緒に働いていた記憶がほとんどなかった。これはおかしなことだ。今は数人のバイトが入っているが、彼らが来る前は? 小さな店ではあるが、さすがに一人で切り回せるようなものじゃない。

「だから、ちょっと確かめに来たんだ。俺は奇跡的に店を覚えていたし、スープの香りと味もしっかり覚えていた。それに最近、あんたの記憶がうっすらと戻ってきたんだ。そんな中、この写真を見つけた。すると芋づる式にいろんなことを思い出しちまって。俺の妄想なのか、真実なのか確認したくなってここに来たんだ」

そう言ってケンジはポケットから一枚の写真を取り出した。

そこには、確かに俺と若い頃のケンジが並んで、笑って映っていた。

驚いている俺を見て、ケンジは悲しげに笑った。

「思い出したか?」

だが、俺には何も思い出せない。ただ、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような感覚だけが残った。ただ、黙って首をふることしかできない。

「あのスープはもう作らないでくれよ。どうやら、俺が思い出したことは本当に過去にあったことらしい。でもレシピが変更されてるってことは……あんたも実は気づいてたんだな」

ケンジはゆっくりと立ち上がった。スープを飲み干した器を丁寧に置き、濡れたスーツを整えた。

「ありがとう。お前の料理をもう一度味わえて良かったよ」

そして、彼は再び雨の中に消えていった。

翌朝、目を覚ました俺は、昨日のことが気になって店の奥の倉庫を調べてみた。あのケンジという男が嘘をついているようには見えなかったのだ。

倉庫をあさっていると、棚の奥から埃だらけのレシピ帳が出てきた。その中にしっかりと紙テープで封印されているページがある。このレシピ帳に触れられるのは自分だけだが、こんなことをした記憶はない。

慎重にテープをはずしていくと、そこには『記憶のスープ』というページがあった。

『このスープを口にすると、記憶を消すことができる。ただし、注意せよ。過ぎればすべてが消えることもある』

その文字を見て、全身が震えた。俺は昔、このスープを作り続けていたのだろうか。そして本当に記憶が――?

とても信じられない。

レシピ帳を閉じて、俺はため息をついた。

あの雨の夜、ケンジという男が語った過去――自分の記憶が穴だらけであることや、このレシピ帳を見るに、矛盾はないように思った。しかしやはり信じられない。

ただ一つ確かなことは、このスープを二度と作ってはいけないということだけだった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました