#359 夜店の闘魚

ちいさな物語

夏祭りの金魚すくいは、いつもと変わらない賑やかな光景だった。

ちょうちんの淡い明かりが照らす水槽には、赤や黒、オレンジや白の金魚たちがゆらゆら泳いでいる。
子どもたちは夢中になってポイを水中に差し込み、慎重に金魚をすくっては歓声を上げた。

だが、この夜店にだけ、不思議な噂があった。

「ここの金魚すくいは、ちょっと変わってるんだよ」と囁かれるのだが、具体的に何が違うのかを知る者はいない。

ある夜、町外れに住む少年・コウタはその噂を確かめたくて、その店に訪れた。
店主は頭に鉢巻きを巻いた老人で、細く鋭い目つきで少年をじっと見つめてきた。

「坊主、すくっていくかい?」
老人の問いにコウタがうなずくと、店主は静かにポイを差し出した。普通の金魚すくいと変わらないように見えた。

だが、ポイを水に浸した瞬間、コウタは異変に気づいた。水の中の金魚たちは、一斉に彼の方を見たのだ。金魚の目はぎらついていて、小さな鰭を震わせている。

「えっ?」

次の瞬間、水槽の中で奇妙なバトルが始まった。小さく可愛らしい金魚たちは急に泳ぎを止め、互いに睨み合いながら静かな円陣を作り始めた。赤い金魚と黒い金魚が中心になり、まるで対決の合図を待っているようだ。
コウタが驚いて老人を見上げると、老人は静かに言った。

「おや、坊主は気に入られたみたいだな。始まるぞ。こいつらはただの金魚じゃない」

その言葉を合図に、水槽の中央で二匹の金魚が激しくぶつかり合った。
小さな体を猛烈に震わせ、水中で激しく回転し、互いに鱗を剥ぎ合いながら戦っている。

信じられないことに、水槽の中の他の金魚たちはまるで観客のように、その戦いを冷ややかに見守っていた。

コウタは声も出せずに、ただ見つめているしかなかった。いつの間にか周囲の祭りの音は遠ざかり、この小さな水槽だけが世界の全てのように感じられた。

やがて、黒い金魚が赤い金魚を追い詰め、尾びれに噛み付いた瞬間、勝敗は決まった。
負けた金魚は力なく水槽の隅に泳ぎ去った。老人は小さく手を叩いた。

「お見事」

老人の声を合図に、他の金魚たちは再び普通の金魚に戻ったかのように、静かに泳ぎ始めた。老人は淡々と言った。

「今宵の勝者を連れて帰るがよい。それがおまえの運命だ」

コウタは呆然としながらも、慎重にポイを水中に入れ、黒い金魚をすくい上げた。金魚はおとなしく彼のポイに乗り、コウタの椀の中で誇らしげに泳ぎはじめた。

家に持ち帰った金魚は、飼育用の水槽に入れた途端、再びじっとコウタを見つめてきた。その目には知的な深みがあり、コウタは少しだけそれが怖かった。

それ以来、彼の周りでは奇妙なことが起き始める。

学校で喧嘩をすると、必ずといっていいほど勝った。コウタはそんなに腕っぷしが強い方ではない。口論でも同じだった。

部活の試合をすればほぼ勝つのだが、負けた場合でも、対戦相手が何らかの理由で倒れたり、怪我を負ったりする。

根拠はないが、なんとなく、あの金魚が原因のように思われた。

コウタはやがて恐ろしくなり、翌年の夏祭りに金魚を夜店の老人に返しに行った。老人は彼を見ると不敵に笑い、首を振った。

「金魚がお前を選んだんだ。わしにはどうすることもできん。ここで返してもらっても、いずれまたお前のところに戻って来る」

老人の言葉を聞いて、コウタは金魚すくいの金魚たちを見つめた。そこでは新しい金魚たちが、また別の勝者を決めるための戦いを始めていた。

「坊主はうちの金魚たちに人気があるようだな」

コウタはあわててその場を立ち去った。

その日を境に、コウタは人との争いを避けるようになった。金魚が代わりに闘っていることを知り、人と関わることに怯えるようになったのだ。

彼はもう二度とあの夜店に近づかなかったが、毎年夏が近づくと、どこからともなく人々が囁いている声が耳に届く。

「あの金魚すくいの店、今年も来てる」

「大昔、負け無しの武将が大事にしていた品種の金魚だっけ。転売したら売れそうだよな」

「でも扱いが難しくて、飼ってもすぐに死んじゃうんだって」

「いや、金魚に選ばれた武将しか飼えないんだよ」

「ハハッ。そんなの、飼い主がズボラのいいわけにしてるだけだろ」

祭りの太鼓が遠くで響く夏の夜、金魚たちはまた新しい主人を待ち、冷たい目をして水の中で静かに待機する。

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