#370 台所にいるもの

ちいさな物語

ちょっと……なんというか、地味な話なんだけど、それでもいいかな。

あれは、去年の夏の終わりだったと思う。

夜中に喉が渇いて、私は水を飲みに台所へ降りた。家の中は蒸し暑く、外の虫の声が障子越しに響いていた。

台所の電気はつけなかった。月明かりが窓から差し込んで、流しやテーブルの輪郭は十分に見えたからだ。

私は冷蔵庫を開け、水差しを取り出した。グラスに水を注ごうとしたとき、視界の端で何かが動いた気がした。

最初は猫かと思った。

猫なんて飼っていなかったんだけど、四つ足で、背は低く、するりと床を滑るように移動する動きが猫を思わせた。

だが、よく考えると猫にしては体が妙に長かった気がする。しっぽがなくて、背中がなめらかにうねっていたような……。

たぶん気のせいだろうと、私はそっと腰をかがめてテーブルの下を覗き込んだ。

――目が合った。

大きな黒目が、真っ直ぐこちらを見ていた。暗闇にぽっかりと浮かぶ、つややかな瞳だった。

そして、それは口の端をゆっくりと吊り上げた。笑ったのだ。人間のように、にやりと。

息を呑んだ瞬間、そいつはカタカタと小さく足音を立て、流しの方へ走った。

だが、次の瞬間にはもういなかった。足音も止み、台所には私一人。

私は水を一口飲み干し、電気をつけて隅々まで見回したが、何も見つからなかった。

ただ、テーブルの脚の根元に、小さな水のしずくが一粒だけ残っていた。

それからだ。夜中に台所へ行くときは、必ず電気をつけるようになった。

なぜなら――あの黒い目が、また暗闇の中から私を見ているかもしれないからだ。

しかし、この前は妙なことがあった。

台所に置いておいた私のグラスから、ほんの少し目を離した隙に、水が消えていたんだ。

たった1分足らずの出来事だったので、気のせいとは思えなかった。

うちの台所には何かが住み着いているのかもしれないと思ったって話……。

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