#376 夏空を渡るクジラ

ちいさな物語

今年の夏は、どうにも蒸し暑くて、毎日が退屈だった。

セミの声ばかりが響く昼下がり、僕は屋上で空を眺めていた。団地の屋上は子供たちの秘密基地だったけれど、このごろは飽きてしまったのか誰も来ない。

僕は寝転がって雲を見ていた。白い雲の切れ間に、ぽっかりと青空が広がっている。

そのとき、ふと視界の端に、不思議なものが見えた。入道雲の切れ間から、なにか大きな影が、ゆっくりと流れていく。

最初は気のせいかと思った。でも、よく目を凝らしてみると、それはクジラだった。本物のクジラが、青空を泳いでいるのだ。

水の中ではなく、雲を割って、悠々と泳いでいる。信じられなくて、僕は立ち上がった。

けれど、何度見てもそのクジラは確かにいた。

背びれが雲を押し分け、尾びれが風に乗って波のように揺れている。

あまりにも大きく、あまりにも静かで、現実味がなかった。

僕は慌ててスマホを取り出したけれど、カメラを向けると雲しか映らない。

「幻?」とつぶやいたとき、どこからか声が聞こえた。

「見えたんだね」

振り向くと、見知らぬ男の子が立っていた。

白いシャツに短パン、裸足。僕より少し年下くらいに見えた。

「君にも見えるの?」と尋ねると、男の子はにこりと笑った。

「うん、でも見えるのは今だけだよ。夏が終わると消えちゃうんだ」

僕は不思議な気持ちになった。

男の子は屋上の端まで歩いていき、空のクジラをじっと見つめている。

「どうしてクジラが空を泳いでるの?」

「それはね、夏のあいだだけ空に迷い込むんだよ。子供の夢と一緒に」

男の子の言葉は、とても自然で、どこか説得力があった。

「じゃあ、あのクジラはどこへ行くの?」

「夏の国を泳いで渡るんだ。僕も一度だけ、乗せてもらったことがあるんだ」

「乗れるの? 本当に? どうやって?」

男の子は笑って、僕の手をそっと握った。

「目を閉じてごらん」

僕は言われるがままに、目を閉じた。

次の瞬間、風の匂いが変わった。冷たい潮風と、どこか遠くの雷の音が聞こえる。

「開けていいよ」と声がした。

目を開けると、僕は空に浮かぶクジラの背中に立っていた。雲の海が足元に広がり、遠くの町が小さく見える。クジラはゆっくりと空を渡っていく。

「すごい……でも、少し怖い」

僕がつぶやくと、男の子が言った。

「大丈夫、クジラはやさしいから」

僕たちはしばらく黙って空を旅した。

夏の風が肌をなで、雲の隙間から陽の光がこぼれる。クジラは大きな声で歌い、空中に響く。

その歌はどこか懐かしくて、寂しくて、心が温かくなるようだった。空の中にいるのか、海の中にいるのか、よくわからなくなる。

「ねえ、君の名前は?」

「僕? 僕はここにしかいない。それ以上でもそれ以下でもないんだ」

それから男の子は何も言わなくなった。

やがて、クジラが大きく旋回し始める。

「そろそろ、帰る時間だよ」

男の子がそう言うと、クジラの背中から静かに風が吹き抜け、僕の体がふわりと浮いた。

次に目を開けたとき、僕は屋上で寝転んでいた。

隣には、誰もいなかった。

雲はすっかり形を変え、空のクジラはもう見えなかった。

「夢……だったのかな」

あれから何度も空を見上げてみたけれど、あのクジラは二度と現れなかった。

けれど、夏が来るたびに、僕は屋上にのぼり、雲の向こうを探してしまう。もしかしたら、またいつか、空を渡るクジラと出会えるんじゃないかと思って。

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