今年の夏はやけに暑かった。
八月の終わりになっても、蝉の声は止まず、夜になってもまとわりつくような湿気が抜けない。
僕の住むアパートの郵便受けには、町内会の回覧板や広告しか入らないのが普通だ。だけど、あの日は違った。ポストを開けると、見慣れない青い封筒がひとつだけ入っていた。
封筒には丸っこい文字で「ざんしょおみまい申し上げます」と書かれている。そして、差出人の欄には、ひらがなで「あざらし」とだけあった。
僕は思わず「なんだこれ?」とつぶやいた。
誰かのいたずらか、それとも町の子ども会か何かのイベントだろうか。とりあえず部屋に戻り、封を開けてみると、そこには手描きの葉書が入っていた。
葉書には、水色のインクで波と太陽が描かれ、中央に小さなあざらしのイラストがちょこんと座っていた。そして短いメッセージが添えられていた。
「のこりのなつも、すずしくすごしてね。あざらしより」
まったく身に覚えがない。けれど、なんだか可愛くて、その葉書を机の上に飾ることにした。
その夜、寝苦しくて何度も寝返りを打ちながら、僕は「あざらしって、誰だろう」と考えた。
翌朝、ベランダに出てみると、植木鉢の水皿の周囲に、妙な跡がついていた。それは一定のパターンで続いていて、何かが這っていった跡のようにも見える。
「まさか、まさかね」と思いながら、ちょっとだけ胸がざわついた。
会社でもその話をしたが、「面白いな、それ」とみんな笑って取り合わなかった。
でも、それからも奇妙なことが続く。
洗濯物を干していると、いつの間にかバスタオルが湿っていたり、部屋の床に水たまりができていたりする。冷蔵庫を開けると、氷の隙間に魚の形をしたグミがひとつ紛れ込んでいたりする。
そして、二通目の葉書が届いた。「まだまだあついね。ぼくは水のなかでのんびりしてるよ。」
差出人はやっぱり「あざらし」だった。
「おいおい、本当に誰だよ」と思いながらも、僕はちょっと楽しくなってきて、その葉書も机に並べた。
そんなある日のこと。
夕立の後、玄関先に小さな水の跡が続いているのを見つけた。跡は部屋の中まで続いていて、窓辺のカーテンの下で止まっていた。
おそるおそるカーテンをめくると、そこには、ふわふわの灰色の塊が……。
「……あ、あざらし?」
手のひらサイズの、小さなあざらしが、窓辺でくるんと丸まって寝ていたのだ。
信じられなくて目をこすった。でも、何度見てもそこにはあざらしがいる。呼吸をするたびに体がふわふわ動く。
「あざらし、なのか?」
すると、その小さなあざらしは、ぱちりと目を開けて、僕を見た。本物のあざらしというより、ぬいぐるみみたいな、キャラクターめいた姿をしている。
「……ざんしょおみまい、もういっかい、いいですか?」
聞き間違いかと思ったが、確かにあざらしはそう言った。口元が動いていて、人間の言葉をしゃべっている。
「う、うん……いいけど……」
あざらしはうれしそうに笑い、尾をぱたぱたと振った。
その日から、僕の部屋には毎日あざらしからの「ざんしょおみまい」が届くようになった。
窓辺に並ぶ水色の葉書、氷の上でひんやり眠るあざらし、時折くれる魚グミのおすそ分け。
夏はいつまでも終わらず、不思議な残暑見舞いが届く日々が続いた。
やがて季節が進んで、秋の風が吹き始めても、あざらしは窓辺で丸まって眠っている。
「もう、ざんしょおみまいは終わり?」と僕が聞くと、あざらしはちょっとだけ寂しそうに、「うん。そうだね。でも、また来年も、ね。送るから」と言った。
翌日、あざらしの姿は消え、急に秋めいた気候になってきた。意味はよくわからないけど、それは小さな夏の終わりの魔法だったのかもしれない。
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