#391 宝石の森

ちいさな物語

森の奥深く、人の足がほとんど入らぬ場所に、奇妙な噂がある。

木々の葉も枝も幹も、すべてが宝石でできた森があるというのだ。

宝石の森――そう呼ばれていた。
 
それは、かつて旅の商人から聞いた話だった。最初は笑い飛ばした。宝石の森などあるものかと。だが男は道を踏み外し、思いがけずその森に迷い込んでしまった。

その日は霧が深かった。

木々をかき分けて進んでいると、不意に光が目に差し込んだ。霧の向こうに輝きがあり、近づくとそこは一面の煌めきに満ちていた。

葉は翡翠のように透き通り、枝は水晶のように白く輝いていた。幹は黒曜石のように黒光りし、風が吹けば木の葉同士が触れ合い、澄んだ音を奏でた。

シャラン、シャラン……

それは鐘の音のようでもあり、鈴の音のようでもあった。

男は息を呑んだ。

「なんという美しさだ……」

しかし、同時に妙な気配を感じた。森は不気味なほど静かで、鳥も獣もいない。ただ宝石の葉が鳴る音だけが響いていた。

やがて男は、一枚の葉を手に取ろうとした。光に照らされ、宝石のようにきらめくその葉は、どうしても欲しくなるほど魅力的だった。

けれど、指先が触れた瞬間――森全体がざわめいた。

シャラン、シャラン、シャラン……

葉が震え、枝が鳴り、幹までも低く唸るような音を立てた。男は慌てて手を引っ込めた。

そのとき、背後から声がした。

「触れてはならぬ」

振り返ると、白髪の老人が立っていた。いつの間に現れたのか、気配もなくそこにいた。

「この森は捕食者だ。欲を持って触れた者は森に喰われる」

男は震えながら問い返した。

「喰われる……?」

老人は黙って足元を指差した。

見ると、地面に半ば埋もれた人――のような形の塊があった。手を伸ばしたまま固まり、全身が宝石と同じ輝きに変わっていた。かつてここで欲に駆られ、触れてしまった者の成れの果てだという。

森は静かに彼を飲み込み、やがてすべてを美しい輝きに変えていく。

男は背筋に冷たいものを感じ、震える声で言った。

「……では、なぜ私を助けてくださるのです?」

老人は微笑んだ。

「私はもう、ずっと昔に森に触れてしまった者だ。すでに私の肉体は森の一部になり輝いている。しかし魂はかろうじて逃れ、こうして新たに迷い込む者を導く役目を担っている」

その目は人ならぬ光を帯びていた。瞳の奥で、宝石の森と同じ輝きがちらちらと揺れていた。

男は慌ててその場を立ち去った。

振り返ると、老人の姿はもうなく、ただ宝石の森がきらめいているだけだった。

それから男は二度とその場所に足を踏み入れなかった。

だが時折、夢の中であの音を聞く。シャラン、シャラン……と、澄んだ宝石の葉の音。

森が呼んでいる――そう思うのだ。

おそろしいのは思い出すたびにあの美しい森の一部になるのなら、このまま醜く老いてゆくよりはむしろ幸せなのではないかと思ってしまうことだ。

あの森は、今も誰かを待っている。欲に負けて手を伸ばす者を。そしてその者を、永遠の輝きへと変えるために。

そして男はいつの日か、欲に負けてまたあの森へ帰ってしまうような気がしている。

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