山には不思議な話がつきものでございます。
中でも「月影の庵」の噂は、古くから村人たちの口の端に上り、子や孫へと語り継がれてまいりました。
ある夜のこと。若い猟師の庄五郎が山で道に迷ったそうです。
谷を越え、崖をよじ登るうちに日はすっかり落ち、辺りは闇に閉ざされてしまいました。木々の影が揺れ、どこからともなく獣の遠吠えが響きます。
「困ったな……」
寒さに震えながら進む庄五郎の目に、木立の間に小さな庵が映りました。戸口からはあたたかな灯りが漏れており、胸をなでおろした彼は戸を叩きました。
「おぉ、こんな夜更けに珍しい。さぁ、入るがよい」
戸を開けたのは白髪の老僧でございました。囲炉裏の火は赤々と燃え、湯気の立つ粥が庄五郎に差し出されます。
「ありがたい……。まるで仏様のようだ」
庄五郎は深く礼を言い、腹を満たして火に手をかざしました。老僧は微笑みながら、静かに語ります。
「この庵は、旅の者をもてなすためにあるのだよ」
不思議なことに、庵の中には座布団が一つ、食器も一つきり。まるでここには老僧しかおらぬように見えるのに、どこか人の気配が漂っていたといいます。
けれども疲れには勝てず、庄五郎はそのまま眠りに就きました。
夜半、ふと目を覚ますと、庵はしんと静まり返っていました。
障子に月明かりが差し込み、影が揺れています。風かと思い再び眠ろうとしたとき――。
「よう来たな……」
確かに声がしたそうです。驚いて辺りを見回しましたが、老僧の姿はどこにもありません。胸騒ぎを覚えながらも、庄五郎は夜明けを待ちました。
翌朝。
目を覚ますと、庵はすっかり朽ち果てた廃屋に変わり果てていました。囲炉裏は冷えきり、昨夜の温もりは跡形もない。
「夢……だったのか?」
そう思いましたが、老僧と語らった記憶はしっかりと残っています。
庵の奥を覗くと、古びた木札が掛かっておりました。そこにはこう記されていたといいます。
「ここに庵を結びしは、月影の僧なり。旅人よ、安らぎを得たならば、再び迷うことなかれ」
庄五郎はしばし立ち尽くしたのち、静かに山を下りたそうです。
それ以来、彼は二度と山で道に迷うことはなかったと伝わります。
そして今も村では語り継がれております。
満月の夜、山の奥にかすかな灯りを見た者がいる。それが「月影の庵」であり、老僧の正体は狐か狸か――。
誰も確かめたことはありませんが、不思議とその話を聞いた者は道に迷わなくなるのだそうです。
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