#403 昇降の途中

SF

エレベータの扉が閉まる音は、思いのほか軽やかだった。

だが、その先に待つ旅路は軽やかとは言えない。

地上から宇宙ステーションまで、数時間かけて上昇する。

「長いなあ」

隣でつぶやいたのは、作業着姿の中年の男だった。額に汗が浮かんでいるが、慣れているのか落ち着いた表情をしている。

「これから宇宙に行くのに随分と浮かない顔ですね」

俺がそう返すと、男は笑った。

「いや、ただ、このエレベータ長いから。自分の人生を振り返ってしまう」

エレベータの外には、まだ地上の街並みが広がっている。

だが少しずつ、高度を増すごとに見慣れた景色が遠ざかっていく。

「俺は、昔は漁師だったんだ」

唐突に男が語り始めた。

「海に出て、魚を獲って、それで暮らしてた。波の音と風の匂いが、世界のすべてだった」

「それがどうして、宇宙に?」

「嵐で船を失った。仲間もな。あのとき、海は無限に思えた。人間なんて、波しぶきのひとしずくよりずっと小さい。でも宇宙はもっと広い。船もなくなってしまったし、それならもっと遠くを見てみたいって」

エレベータは静かに上昇を続ける。窓の外の海岸線が細い糸のように見えてきた。

「俺は病気で宇宙に行くことを勧められたんです」

自分でも、なぜ口を開いたのか分からなかった。

「この体じゃ長くはない。ずっと行ってみたかったなら宇宙に行ってみたらいいって家族に言われて……」

「なるほど」

男は短く頷き、感慨深そうな表情をする。しかし、それ以上何も言わなかった。

俺は少しほっとした。自分から言いだしておいてなんだが、同情はされたくなかった。

会話は途切れ、しばらく沈黙が流れた。やがて窓の外に、薄い雲の層が広がった。エレベータはその中を突き抜け、光に包まれる。

「子供の頃から、空を見上げるのが好きだった」

ぽつりと男が続けた。

「夜の星を見ながら、あれはディスプレイに表示されたただの光の明滅なんだと思ってた。でも実際、それと変わらないんだよな。遠すぎて実在するか分かったもんじゃない」

「でも、今は確認する方法がいくつかありますよ」

「そうだな。……ただ、不思議なんだ」

「何がですか」

「俺たちはなぜ宇宙を目指すんだろうな。生きるには地球で十分だろう。人口も減少している。環境問題は解決しつつある。だけど、人はどうしてか空を越えたくなる」

答えは思いつかなかった。

外の景色はすでに青から漆黒へと変わりつつある。地球の曲線が見えた。その美しさに、胸が締めつけられるような感覚を覚えた。

「……もし宇宙で死んだら、俺は星になれるのかな」

自分でも気づかぬうちに口から漏れた。

男はゆっくりと笑った。

「なれるさ。少なくとも、誰かがそう思ってくれるならな」

エレベータはさらに上昇し、ついに宇宙の闇へと到達した。星々が散りばめられた黒の中を、静かに進んでいく。

「ほら、見ろ」

男が指差した先に、宇宙ステーションが姿を現した。

巨大な輪のような構造物が、光を反射しながら浮かんでいる。

俺は思わず息を呑んだ。

「ここまで来たんだな」

「そうだ。ここから先は、新しい旅だ」

男の声はどこか嬉しそうで、同時に寂しそうでもあった。

やがてエレベータが停止し、扉が開く。

ステーションの光に包まれたその瞬間、俺はふと振り返った。

窓の外に広がる地球は、あまりに遠く、小さく見えた。

「なあ」

男が最後に言った。

「宇宙に来る理由なんて、人それぞれだ。だが一つだけ言えるのは――空を目指すこと自体が、人間の性なんだろうな」

俺は黙って頷いた。

その言葉は、不思議と胸にしみ込んでいった。

エレベータの扉が静かに閉まり、地球の気配が絶たれたような感じがした。

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