#418 黒い水面

ちいさな物語

最初に異変が起こったのは、静かな朝だった。

「なあ、あれ……何だ?」

公園の池を覗き込んでいた男が、呆然と呟いた。普段は穏やかに波打つ水面が、何かに侵食されるように黒くうごめいていた。

虫だった。

小さな甲虫のような形状だが、明らかに普通の昆虫とは異なる。

甲殻は半透明で、体は異様に細長く、水面を漂うのではなく、確実に歩いていた。

無数のそれが、規則的に動きながら、まるで何かを描くように広がっている。

「気持ち悪いな……」

通報を受けた市の職員が調査を始めたが、正体はまったく不明だった。

既存の昆虫図鑑には該当する種はなく、地元の大学の昆虫学者も「見たことがない」と首を傾げた。

だが虫は増え続けた。

最初は池の表面だけだった。

やがて川へと流れ込み、数日後には水路全体を覆い尽くした。

水面は黒い絨毯のように見え、そこに近づいた鳥や魚は、次の瞬間には姿を消した。

まるで虫たちに吸い込まれるように。

「生態系が崩れるぞ」

誰もが不安を口にした。

だが、虫はただ増殖を続けるだけで、街に直接危害を加えることはなかった。

それが、逆に恐怖を深めた。

やがて市民の間で、ある噂が流れ始めた。

「水面に描かれている模様、あれは“文字”じゃないか?」

確かに、虫たちの群れは毎晩、決まった形を浮かび上がらせていた。

最初は円や線の集合体。

次第に、より複雑な記号へと変化していった。

新聞には「未知の言語か?」という見出しが踊り、SNSには「水面の暗号」と呼ばれる画像が溢れた。

そして、決定的な夜が訪れた。

群れが描いた模様が、誰の目にもはっきりとした日本語に見えたのだ。

『まだ見えているか』

市民は騒然となった。まるで池そのものが問いかけてくるようだった。

その日を境に、街では奇妙な出来事が頻発するようになった。

夜、部屋の中で水音が聞こえる。床に小さな水滴が並び、それが虫の形に変わっていく。ある家では、浴槽の水面に同じ言葉が浮かんでいたという。

『まだ見えているか』

虫たちは、まるで人々の生活に忍び込み、問いを投げかけているようだった。

だが答える術はなかった。

ある晩、勇気ある若者が池に向かって叫んだ。

「見えてる! 俺たちには見えてる!」

その瞬間、虫たちは一斉に動きを止めた。

水面は凍りついたように静まり返り、次の瞬間、新たな言葉が浮かんだ。

『では次に進もう』

それ以来、虫の群れは街中に溢れ出した。

川を越え、道路を渡り、ビルの壁面を這い上がる。だが誰も攻撃されることはなかった。彼らはただ一方向へと向かっていく。

郊外の丘。

かつて古代の遺跡が発掘された場所。そこで虫たちは巨大な渦を描き始めた。渦は次第に形を変え、やがて一つの門のような構造を成した。

門の向こうには、漆黒の闇が口を開けていた。

誰も近づこうとはしなかった。ただ遠巻きに見ているだけだった。

すると、再び虫たちの群れが言葉を描いた。

『入るか、留まるか』

選択を迫る問いだった。

誰も答えなかった。

だが翌朝、門の前に立っていた若者の姿は消えていた。

代わりに水面に、新しい言葉が浮かんでいた。

『一人は来た』

その日を境に、街からは次々と人が消えた。

門は静かに輝き、虫の群れは今もなお問い続けている。

『まだ見えているか』

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