#426 笑いの迷宮

ちいさな物語

あれは、ほんの出来心だったんです。

仕事帰りに見かけた細い路地にふと足を踏み入れました。その路地は他の道とは全然雰囲気が違ったんです。看板もなく、行き止まりのはずなのに、奥に暗いアーチのような入口が口を開けていたんです。

まるで「入ってみろ」と挑発されているみたいで――気づけば僕は吸い込まれていました。

中に入ると、そこは薄暗い石造りの廊下でした。映画で見るような「迷宮」という言葉がしっくりくるような――そして、遠くから妙な音が聞こえてきました。

「クスクス」「アハハ」「ゲラゲラ」……笑い声でした。

誰かが冗談を言っているのかと思いましたが、人の気配はなく、ただ壁から滲み出すように笑いが響いていました。不思議と恐怖はなく、むしろその笑い声に誘われるように、僕は迷宮の奥へ進んでいきました。

曲がり角ごとに景色は変わりました。赤いカーテンで仕切られた狭い通路を抜けると、次には巨大な劇場の舞台裏に出てしまいました。

そこで小さな人形が舞台の上で踊り、観客席には誰もいないのに拍手と爆笑が響き渡る。頭が混乱しました。

「これは夢か? それとも頭がおかしくなってしまったのか」

恐怖にかられているのに、なぜかここにいると笑ってしまいそうになるのです。そのこと自体が恐ろしく感じました。

不思議と僕の足は止まりませんでした。壁にかかった鏡を覗くと、そこに映っている自分が口を押さえて笑っていました。しかし僕自身は笑っていないつもりなのです。

ゾッとしましたが、次の瞬間、鏡の中の僕が勝手に歩き出し、迷宮の奥へ消えてしまいました。

慌てて鏡の中を追いかけると、廊下が揺れるように歪み、足元の床がふわりと波打つ。まるで迷宮そのものが僕を弄んでいるようでした。

途中で出会ったのは、仮面をつけた道化師たちです。赤、青、緑の派手な衣装で、声をそろえてこう言いました。

「出口は笑いの先にあるぞ」

僕が問い返そうとした瞬間、彼らは大笑いしながら煙のように消えてしまいました。残されたのは、耳にこびりつくような笑い声だけです。

進むうちに、壁一面に口の絵が描かれた部屋に迷い込みました。

その口たちがいっせいに「ハハハ」と笑いながら僕の名を呼んだんです。
なぜ名前を知っているのか。

背筋に冷たいものが走り、出口を求めて闇雲に走り出しました。しかし走れば走るほど、笑い声は大きく、狂気じみて響き渡る。やがて、笑い声が混ざり合い、言葉になりました。

「笑え、笑え、笑え」

その声に抗えず、僕の口元も勝手に吊り上がっていく。必死に抑えようとしても、喉の奥から笑いが漏れ出しました。

「ハハハ……アハハハ!」

笑いながら、僕は気づいたんです。

ここでは笑うことが罰であり、同時に唯一の通行許可証なのだと。笑い続けるしか生き延びる術はない。

結局、出口を見つけられたのかどうか、自分でもよく覚えていません。
気がついたら、あの路地の入口に立っていたのです。

夜風が涼しくて、現実に戻った安心感に包まれました。

けれど、今でも時折、思わず笑ってしまう瞬間があります。その笑いが本当に自分のものなのか、それともあの迷宮からまだ抜け出せていない証なのか……わからないんです。

だから、こうして話している今も、心のどこかで笑い声が響いています。
聞こえませんか?

クスクス……アハハ……ゲラゲラ……。

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