#444 戻らない交渉人たち

ちいさな物語

あれは今でも夢に見る出来事です。

ある日、街の雑居ビルで立て籠もり事件が起きました。銃を持った男が部屋に閉じこもり、人質を取っているという。

僕は交渉人ではなく、ただの警察官でしたが、現場に動員されていました。

最初に向かったのは、ベテランの交渉人でした。

「大丈夫だ。話をすれば必ず落とせる」

そう言ってドアの前に立ちノックをした。やりとりは比較的スムーズだったように見受けられた。しかし、交渉人は建物の中に入っていってしまう。

「あれ? 中に入っちゃいましたけど、大丈夫でしょうか?」

交渉人が立て籠もり犯のいる建物の中に入るなんて、そんな危険なことをするとは考えられない。

「ありえないな。何が起こってるんだ?」

同僚も困惑したような表情だ。

ところが――しばらく待っても交渉人は帰ってこなかったんです。無線もつながらない。中からは声も物音も聞こえない。

どうやら初めから通信状況がかなり悪くて、交渉人が建物に入ってしまった経緯がよくわからないらしい。

「どうした?」「中で何が?」とざわめくうちに、上司が次の交渉人を送り込みました。「絶対に中には入るなよ」と指示もしていました。

しかし――なぜか同じことが繰り返されました。交渉人は建物に入ってしまい、戻ってこない。

三人目も、四人目も、五人目も中に入ってしまい戻ってこない。

中からは銃声どころか、物音ひとつ聞こえない。ただ、無音のまま人だけが消えていく。

「なぜドアの前に立つと通信が途切れるんだ?」

誰かがぽつりと呟いた言葉が、現場を凍らせました。やがて、現場指揮官が僕を見た。

「次は、お前だ」

心臓が跳ねました。僕なんかに交渉ができるはずがない。でも命令は絶対です。他に人がいないのだから状況的に仕方がない。

震えそうになる体をなだめてドアの前に立ちました。

内側からは何の音もしない。まるで無人の部屋のように静かで不気味でした。

「こちら警察です。話を聞かせてくれませんか」

そう言ってノックをした瞬間、ドアがすっと小さく開きました。中からは不思議な音……音楽のようなものが聞こえます。

入るなと言われていたのに、僕は抗いがたい誘惑に囚われ、薄暗い部屋の中に足を踏み入れてしまいました。

中は意外なほど広く、しかし家具もなく、ただの空間が広がっていたんです。

人質もいない。犯人の姿もない。

けれど、部屋の奥には並んでいました。先に入った交渉人たちが。みんな立ったまま、壁に向かってじっと立ち尽くしている。

声をかけても、人形のようにまばたきひとつしない。

「どうしたんですか!」と肩を揺さぶると、彼らが一斉にこちらを振り向いた。

その顔は、虚ろな笑みを浮かべている。

僕は息を飲んだ。

「どうして……」

彼らは同時に口を開いた。

「仲間になろう」

重なり合う声は、不気味な合唱のように響いた。

背後のドアに手を伸ばそうとした瞬間、いつの間にかそこに犯人が立っていた。銃は握っていない。ただ、両腕を広げて、まるで舞台の幕を開ける俳優のような仕草をしていた。

「ようこそ。我々の部屋へ」

男の声が耳に直接流れ込んでくる。

交渉人たちの笑みはさらに深まり、僕の腕を掴んだ。冷たい。血の気のない指先が、蛇のように絡みつく。

「やめろ!」と叫んでも、彼らは耳を貸さない。

そのとき、壁に向かっていたはずの人々の顔が、少しずつ僕と同じ顔に変わっていくのが見えた。皮膚の色も、表情も、声まで。

「うん……? どうやら定員オーバーのようだな。残念だ」

耳元で誰かが囁いた。

気づけば僕もまた、虚ろな笑みを浮かべていた。

そして、気がついたときには、外にいた。騒然とする現場、無線の音、サイレン、一気に耳に流れ込んでくる。

同僚が駆け寄ってきた。

「大丈夫か!? 中で一体何があった!」

僕は何も答えられなかった。ただ、頬に張り付いた笑みがどうしても消えないような気がして気持ちが悪かった。

その後のことは報告書にも書けなかった。

人質、中に入った交渉人たちは一人も確認されず、犯人の姿も見つからなかった。

ただ、行方不明の交渉人たちの数だけ、あの部屋の壁際に人型の染みが残っていた。

そして今も、ときどき鏡を見るとき、あの虚ろな笑みがふと浮かぶんです。

自分の顔のはずなのに、まるで別の誰かの顔のような気がして落ち着きません。

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