#464 神様の同居人

ちいさな物語

ある日、道端でボロボロの男を拾った。彼は「神だ」と名乗った。最初は信じなかったが、彼が見せた小さな奇跡を見てしまった。その日から、俺の家に神様が住みついた。やがて、彼はこの世界に再び“祈り”を取り戻していく。(文字数:)

「#464 神様の同居人」
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ちいさな物語


あの日、俺は神様に出会った。

帰り道、駅前の公園で見かけたボロボロの男がいた。汚れた着物に裸足、白い髪は乱れ、目の焦点が合っていない。手には段ボールの札があり、こう書かれていた。

「信仰をください」

初めは、ただの浮浪者だと思った。

だが、彼のいるベンチ周りには不思議と清浄な空気が流れている。ゴキブリがすぐそばまで来ては、何かに怯えたように走り去った。

少し怖いなと思いながらも、声をかけた。

「……大丈夫ですか?」

男はゆっくりと顔を上げ、掠れた声で答えた。

「私は……水鏡澄明八重霞之命(ミズカガミスミアカルヤエガスミノミコト)という」

「……え、何て?」

「うむ。水鏡(ミカガミ)と呼ぶがよい。神だ」

思わず笑いそうになった。少しおかしな人かもしれない。だが、その瞬間——。

曇っていた空がサッと晴れ、月の光が辺りを満たした。そして、周囲の音がすべて消えた。ふと見ると、ベンチの足元にさっきは咲いていなかったはずの白い花が一輪、ぽつりと咲いていた。

「……今はこれで限界か」

男——いや、水鏡と名乗ったその人は、力無く微笑んだ。

「もう、これほどしか力が及ばぬ」

体の奥がざわりと震えた。目の前の男、只者ではない。気づけば、俺は口を開いていた。

「……あの、お困りでしたらうちに来ますか?」

彼はハッと驚いたようにこちらを見てから、ゆっくりと頷いた。

「恩に着る」

——こうして、俺の家に神様がやってきたのだ。

それからの数日は、奇妙でどこか穏やかな日々だった。

水鏡さんは現代の人間の暮らしに疎く、レンジの前で「これは雷の神の神器か?」と言い、洗濯機に頭を突っ込み「水の神が暴れておる!」と叫ぶ。

だが、ひとつひとつの所作が不思議と丁寧で、美しかった。茶を飲むときの手つきや、箸を持つ指先にさえ気品と威厳がある。

そして、食事の前には必ず手を合わせてこう言った。

「感謝」

その声には、人の祈りの欠片のような温かさがあった。日本人の「いただきます」には、食材に宿っていた命、食事を作ってくれた人、その他の多くに感謝を伝えるものと聞いたことがある。そんなことを思い出す。

ある夜、俺は聞いてみた。

「水鏡さんって……どうして人間の世界に?」

「忘れ去られたのだ」

彼は湯気の立つ湯呑みを見つめながら言った。

「神への祈りが消え、信仰が失われれば、神は神としての力を失う。我は長く、この地の水を司ってきた。だが、最近はもっと簡単に恵みを得ることができる。もはや水を乞い、ありがたがることもなくなった。ゆえに、我が力は尽き、人の姿となりここにいる」

言葉のひとつひとつが胸に沁みた。それでも、俺は口を開いた。

「でも、完全に忘れられたわけじゃないと思います。今でも人は何かあると神社に行ってお祈りしたり、お守りを持っていたりします。もしかしたら水鏡さんのことはきちんと覚えていないのかもしれないけど——でも、それなら、少しずつ思い出してもらえばいいんじゃないですか?」

「思い出す……か」

水鏡さんは小さく目を細め、やがて微笑んだ。

「面白い。神の存在を思い出す——か」

「いや、ただ思っただけですよ」

それから、水鏡さんは毎日のように外へ出かけるようになった。公園で子どもたちに昔話をしてやり、古い井戸を掃除し、枯れた花壇に水を注ぐ。

すると、なぜかその花壇には翌日、小さな花が咲くのだ。

最初は偶然だと思った。でも、何度も続くうちに、噂になった。

「ねえ、あの人、花を咲かせるって本当?」

「あの方、水鏡さんっておっしゃるんですって。そばにいるとなんか落ち着くんですよね」

子どもも、大人も、少しずつ集まってくるようになった。

町の空気が変わったのは、それからだ。夜風が柔らかくなり、水の味が少し甘くなった。

蛍が十数年ぶりに戻ってきたとニュースにもなった。

水鏡さんの髪は、いつの間にか銀の光を帯び、目の奥に澄んだ水面のような輝きが宿っていた。会ったときは、老人のように細く頼りない様子だったのに、今やがっしりとした体躯の美丈夫である。

「人の心が、少しずつ澄んできた。我が力が戻るのではなく、彼らの祈りが戻ってきておるのだ」

そう言って微笑む姿は、まさに神そのものだった。

ある晩、夢を見た。

鏡のような水面の上に、水鏡さんが立っていた。風が吹くたび、波紋が光になって広がっていく。

「もうすぐ、我は還る」

「どこへ?」

「神は人の祈りに宿る。祈りが満ちた今、我は再び流れへ戻る。祈りに応えるためには、ここに留まるわけにはいかない」

「そんな、急に……行かないでください」

「案ずるな。神は消えぬ。ただ姿を変えるだけだ。我が名を呼ぶ声があれば、風の音にでも、水のきらめきにでも応えるだろう」

目が覚めると、部屋は静かだった。ちゃぶ台の上に、湯呑みと、一枚の紙が置かれていた。

『感謝。また迷う者を見つけたら、手を差し伸べてやってくれ。そのとき困難が生ずれば、我は必ずそなたを助けようぞ。——水鏡』

それから数ヶ月。

町の片隅に、小さな祠が建った。誰が建てたのかはわからないが、そこには「水鏡神社」と刻まれている。

いつも花が絶えず、風が涼やかに吹き抜ける。

俺は時々そこへ行き、手を合わせる。

「おかげで、今日も生きてます」

その瞬間、風が一筋、頬を撫でる。水面がわずかに揺れ、陽の光が反射する。

まるで、水鏡さんが微笑んでいるようだった。

——人の祈りは、神の息吹。

きっと今も、水鏡さんはこの世界のどこかで、風のように、光のように、静かに息づいている。

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