その子に出会ったのは、本当に偶然だった。
あの日、僕は出張帰りで、地方のローカル線の無人駅に降りた。帰りのバスまで時間があって、少し散歩でもしようと駅前の坂道を登っていたときだ。人通りなんてまったくない。途中の古びた案内板には、「隣町へ通じるトンネルはこちら」と書かれていた。
地図を見ると、2キロほどの山を貫くトンネル。観光地でも名所でもない。ただ「抜ければ隣町」というだけの道。少し怖かったが、暇つぶしにはちょうどいいと思った。
そして、トンネルの入口に、その子がいた。
大学生くらいの女の子。白いブラウスに紺のスカート。肩までの髪を風に揺らし、ぽつんと立っていた。
僕に気づくと、少し困ったように笑った。
「あの……すみません。よかったら、一緒に通ってもらえませんか?」
少し驚いた。声は震えていて、本当に怖がっているのがわかった。
「暗いのが苦手で……誰かと一緒なら平気だと思って」
なんかかわいいし子だし、頼られるなんてむしろうれしい。
「いいですよ。僕もちょうど通ってみようかと思ってたところです」
彼女はほっと息をつき、軽く会釈した。
「ありがとうございます」
そうして僕らは並んでトンネルへと入った。
中は思った以上に暗かった。入口付近こそ外の光が差し込んでいたが、10メートルも進めば世界は一変する。空気が冷たく湿っていて、足音がやけに響いた。
「長いですね」
「ええ、地図では2キロって書いてありました」
「そんなに……じゃあ結構かかりますね」
彼女は不安げに声を漏らしたが、それでも歩みを止めなかった。少しずつ緊張がほぐれてきたのか、ぽつりぽつりと話し始めた。
「私、暗いところが本当にダメなんです。電気が切れた部屋とかも入れなくて」
「子どもの頃から?」
「うん。小さい頃、父が……よく閉じ込めたんです。押し入れの中に」
僕は足を止めた。
「……それは」
「別に、もう昔のことだから。昔はそういうこともよくありましたよね」
彼女は笑った。でも、その笑いは少し無理をしているように聞こえた。
「そのせいかな。暗闇に入ると、息が苦しくなっちゃうんです。真っ暗だと、あの頃のことを思い出しちゃうから」
僕は言葉を失った。けれど、彼女はまるで何でもないことのように続けた。
「中学のときもね、周りにからかわれたりして。『押し入れ姫』とか呼ばれてた」
「……ひどいな」
「うん。でも、笑っていれば平気だと思ってたんです」
そう言って、ほんの少し笑った。その笑い方が、なぜだかとても切なかった。
何かがバチンと音を立てた。ほとんど用をなしていなかった照明が消えてしまったようだ。トンネル全体が真っ暗になった。
「うわ……」
「大丈夫ですか?」
「ちょっとびっくりしただけです」
本当に何も見えなかった。手を伸ばしても、自分の指先すら見えない。
「電気……全部切れちゃったみたいですね」
彼女の声だけが、闇の中に浮かんでいるように響いた。
「大丈夫。まっすぐ歩けば出口に着きます」
遠くトンネルの出口の光は見えている。ゆっくりと歩けば問題ないはずだ。
「……そうですよね」
僕らは歩き続けた。互いの姿は見えない。ただ、声だけが道しるべだった。
少し歩くうちに、彼女の声が静かに沈んでいった。
「ねえ、聞いてもいいですか?」
「はい?」
「あなたは、どうしてこのトンネルを通るんですか?」
「ただの気まぐれですよ。バスまで時間があったんで」
「そうなんだ。……いいですね、そういうの」
沈黙。そして彼女はぽつりと呟いた。
「私ね、ここに来るの、今日で三回目なんです」
「え?」
「一人で通ろうとしたけど、怖くて戻っちゃって。二回目も途中で引き返してしまいました」
「三回目で、やっと一緒に通れる人が見つかったってことか」
「うん……」
その声が少し震えた。
「本当はね、今日で最後にしようと思ってたんです」
僕は立ち止まった。
「最後って……どういうこと?」
「死のうと思ってたんです」
息が詰まった。闇の中で、彼女の声がゆっくりと続く。
「もう疲れちゃって。家にも、学校にも居場所がなかったから。でもね、このトンネル、すごく静かで……最初に来たときから思ってたんです。ここ、境目みたいだなって」
「境目?」
「生きてる世界と、そうじゃない世界の」
僕は声を出そうとしたが、喉が塞がって何も言えなかった。彼女の足音だけが、すぐ近くに聞こえる。
「でも、あなたが来てくれて、少しだけ迷いました」
「迷った?」
「うん。もう少し、生きてみようかなって」
「それでいい。生きていてください」
沈黙。どれくらい歩いたかわからない。やがて、かすかな光が見えてきた。出口だ。
「見えてきましたね」
「ええ」
ようやく光が差し込んだ。眩しさに目を細めながら振り向いた。
「出口ですよ。ほら――」
そこに、誰もいなかった。
僕はトンネルを出て、しばらく立ち尽くした。冷たい風が頬を撫でる。どこかで鳥の声がした。
まさかとは思った。けれど、あの声の感じがまだ耳の奥に残っている。
あの子は本当に幽霊だったのか。それとも、別の出口から出たのか。
ただひとつ確かなのは、あの日を境に、あのトンネルが封鎖されたことだ。
「崩落の危険があるため、通行禁止」
今もあの山の中で、あの子は静かに歩いているのかもしれない。暗闇の向こうで、僕に「ありがとう」と言った声だけが、今も消えずに残っている。
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