俺の仕事は配達人だ。
……と言っても、新聞配達や宅配便とは違う。俺が届けるのは、「記憶」。
人の記憶と世界のあいだに生じた矛盾を埋めるため、存在しなかった出来事を、あたかも「あったこと」のように届ける。そうすることで、世界は平穏を保つ。
世界は、常に少しずつ壊れている。人が嘘をつき、運命がずれ、死ぬべき者が生き延びる。そうして生まれた矛盾は世界の齟齬となり、修正の対象となる。齟齬はそのまま世界の矛盾の単位「ソゴ」として使われている。
2.5ソゴ以内なら、人間はその違和感を気のせいとして処理できる。しかしそれを超えたとき、世界にわずかなヒビが入る。ヒビが広がれば世界が崩壊する。俺たち記憶配達人は、世界に負担がかからないとされる2.5ソゴ以内の数値に保つ仕事をしている。
記憶配達人は、俺ひとりじゃない。世界中に数えきれないほど存在する。それぞれが神の命に従って働く。
神といっても、宗教的な神ではない。言うなれば「理」――つまり世界の均衡そのものだ。俺たちはその意思に導かれ、記憶を配る。
同時に俺たちは、贖罪者だ。
俺たちの罪とは、生前「理」に反したこと。明確な定義は人間には理解できない。死の瞬間、魂が完全に砕ける前に拾われ、「理」に仕える記憶配達人として体が再構成される。
報酬はない。罪を帳消しにすることもできない。あるのは罪を許されるまでの仕事だけ。
今日の配達指示は、こうだった。
【案件No.34192】
対象:北原真希(32)
内容:「大学時代、恋人・古沢誠が描いた絵本を読んだ記憶」
理由:恋愛記録と情緒データの乖離、感情補正のため。
俺は端末に表示された指示を確認し、無言で頷いた。
こういう案件はよくある。
恋人が亡くなったり、忘れたり、記録が失われたり。その空白が世界の構造を歪ませる。だから、彼女の中に「絵本を読んだ記憶」を与えて、彼女の感情を、ひいては世界を整える。
これくらいの個人的で小さな齟齬が世界を揺るがすのかと、初めは疑問に思っていたものだが、その齟齬が至るところで発生していけば、やがて大きな齟齬を生むのだと聞かされた。
小さな齟齬を小さなうちに配達人が修正していく必要があるわけだ。
俺は夜、彼女の住むマンションの前に小さな記憶受信装置を設置した。これは普通の人間には感知できない。
郵便受けに似た銀の箱。そこに記憶カプセルを投函し、起動を確認。これで明日の朝、彼女は絵本の思い出を持つ。
配達完了――のはずだった。
翌朝、端末が鳴った。
【緊急再配達要請】
理由:「対象の恋人・古沢誠、三年前に死亡を確認。記憶未接続エラー」
……またか。
こういうことは時々ある。原因はだいたい三つ。ひとつは、他の配達人との重複配達。もうひとつは、予期せぬアクシデント。そして最後は、理による指示のズレ。
理は完全ではない。いや、理そのものは完全なのだが、世界は常に動いていて、その瞬間の完全が次の瞬間に崩れて齟齬となる。その修正を押しつけられるのも贖罪人である俺たちだ。
再配達のため、夜、再び彼女の家を訪れた。
呼び鈴を押すと、扉が開く。彼女は微笑んでいた。どこか夢の中にいるような穏やかさで。
「誠……古沢くんの知り合いですよね?」
息が詰まった。これはどういう状態なんだ。頭の中をさまざまな可能性が駆けめぐる。
「いや、知り合いというわけでは……」
「昨日、彼が来たんです」
「……来た?」
「玄関の前で、『あの日の絵本を届けにきた』って」
彼女は楽しそうに笑う。
「でも、おかしいですよね。彼、もう死んでるはずなのに」
背筋が冷えた。
配達された記憶は過去の記憶であると同時に、現在の記憶となだらかに繋がるように設計されている。要するに、すでに亡くなっているはずの古沢が生きている記憶も含んでいたのだ。
彼女は配達された記憶を繋げてしまっている。配達されたのだから当然だが、普通は矛盾により「夢だった」と感じたり、頭がおかしくなったのかと心配したりするくらいのはずだ。
計器を使わなくともわかる。これは軽く20ソゴを超えている。
「あなた、知ってるでしょう? あの人、あなたの名前を出してました。次は僕が配達するって言ってたのよ」
古沢も記憶配達人だった?
こんなことは前代未聞だ。俺の配達した記憶によって、配達人をしていた古沢が彼女に接触し、彼女は配達人の存在を知ってしまった。これは……どうなる?
端末が震える。見なくともわかる。これは30ソゴを超えたアラートだ。俺か、古沢か、彼女か。いや、全員が「調整」される。
かつて、こんなことがあった。
何人かの配達人が集まる場がある。それは配布する記憶の集荷場のようなところで、配達人同士の情報交換の場でもあった。
「聞いたか? キムとウィルソンが『調整』された」
「またか。最近、多いな」
「他の配達班と同時配達が起きたんだと。20ソゴを超えて、現場ごと消された」
調整。それは罰ではない。
神の理が、世界のバランスを取るために行う世界の再構成。齟齬の大きい部分を切り取って、なかったことにする。人も、記憶も、事実もまとめて消える。
誰も、神に抗議などできない。なぜなら、神は感情を持たない。ただ世界の均衡を保つという目的のみを淡々と遂行する。
理はただ、均衡を選ぶのだ。
だが、俺たちはこのとき調整を受けなかった。代わりに俺の端末には新しい案件が届いた。
【案件No.34193】
対象:古沢誠(死亡扱い)
内容:「死亡情報が誤りであった記憶」
理由:魂の残留データ不安定、世界補正のためコピー生成。
――なるほど。
理は、調整ではなく死者――古沢の方を誤配信された記憶に合わせる選択をしたらしい。
正直、こんなパターンがあるとは思わなかった。要するに、神により死人が、しかも配達人だった存在が蘇るのだ。
古代より人間が夢に見てきた「死者の黄泉がえり」が、あっさりと実現するのだから驚くばかりだ。
俺は廃ビルの屋上でカプセルを地面に置いた。夜風が止み、世界が静かになる。――送信。
端末が震えた。
【齟齬率:2.4ソゴ 正常】
「きみが古沢?」
目の前に古沢と思われる人物が二人いる。明らかに配達人らしき装備の古沢と、ごく普通の人間に見える古沢だ。これがコピー生成なのか?
次の瞬間、人間の方の古沢がきょとんとした表情をした。空を見て、周りを見て、首を傾げる。二人の配達人は視界に入っていないようだった。
「ん? 何しにきたんだっけ? 真希に買い物頼まれて、それから……。ああ、タバコ吸いに来たんだ」
一方、配達人の古沢はまるですべてを理解したようにゆっくりと頷いた。
「あれは俺じゃないが、これで均衡だ」
空を見上げると、夜空に無数の光。世界中で同時に配達をしている仲間たちが誰かが補正をし、誰かが調整され、それで世界は回っている。
「あの、古沢さん、さぁ……」
「わかってる。悪かったよ。関係ないあんたを巻き込んで」
俺はすべてを理解した。
要するに記憶配達人・古沢誠は、自分自身と俺と北原真希を「自分が生き返る」という賭けへ勝手にベットしたのだ。賭けに負けたら全員が調整されることを知りつつ。
あの日、北原真希へ配達された記憶に重大な齟齬――古沢が生きているという記憶が含まれていると知った古沢は、理がその記憶に添わせるために、自分を生き返らせる可能性があると思いついた。
その可能性を高めるために、あえて北原真希へ接触し、その記憶を補強した。本来であれば、記憶配達人は絶対に生前の知り合いには接触しない。なぜならその時点で20ソゴをオーバーし、調整の危険が訪れるからだ。
「――残念だったな。コピーで代用するみたいだ。真面目に仕事しろよ」
俺はそれだけ言って、その場を後にした。端末が光を放ち、世界が書き換わる。
【齟齬率:1.1ソゴ 正常】
世界は、今日もかろうじて保たれている。――それが、この世界の正しさだ。
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