ことの発端は、昼休みのどうでもいい雑談だった。
「人生で一番、くだらないことに本気を出したって経験ある?」
営業の中村が唐突にそう言ったのだ。みんなポカンとしていたが、彼は真顔で続けた。
「昨日、家のティッシュ箱の残りを何秒で引ききれるか、本気で記録を取った」
笑いが起きた。「中村、暇か!」「もったいねぇよ」と口々に突っ込まれると、彼は胸を張った。
「いや、結果を言おう。88秒だ」
その数字の中途半端さが、逆に妙にリアルでおかしかった。その記録は残っていたティッシュの枚数で変動しすぎるだろう。雑かつ無意味。
「それ、記録更新とか目指すの?」
「もちろんだ。明日はさらに高みを目指す」
……その瞬間だった。総務の佐々木さんが、スッと手を挙げた。
「私も挑戦していい? 私、職場のホワイトボード消しの一番きれいな消し方、極めてるから」
笑いが二重に起きた。「何を極めてるんですか!」
だがこの会話が、後に「くだらないことに全力投球選手権」へと発展するなど、その時の誰も想像していなかった。
翌週、社内チャットに謎のスレッドが立った。
【第1回くだらないことに全力投球コンテスト開催】
ルール:
・命の危険を伴わないこと。
・とにかくくだらないことを全力でやること。
・証拠を提出すること。
参加者は自由。優勝者には「金のバカ王冠」が授与される。
……金のバカ王冠? 誰が作るんだよと思っていたら、もう経理の木村さんが金スプレーで段ボールを塗っていた。
早すぎる。
初日から、エントリーが殺到した。
営業部の田辺は、「ホチキスの針を全部まっすぐに伸ばす」という奇行で挑戦。
総務の佐々木さんは、「一日中ホワイトボードを消し続けて一番きれいな瞬間を写真に撮る」という執念を見せた。
開発部の高橋は、「自動販売機でもう1本当たる確率を手動で計算していく」とか言い出し、ジュースを大量に買い始めた。
だんだん理屈が分からなくなってきたが、妙に盛り上がっている。
昼休みには「くだらない部活動」が乱立した。
「付箋早貼り部」「輪ゴム射撃同好会」「書類の角ピッタリ対決」。
俺は最初、冷静だった。
「みんな暇すぎだろ」と笑っていた。
だが、だんだん焦りが出てきた。
——全力でくだらないことをやっていないのは、自分だけじゃないか?
人は不思議なもので、バカを見て笑っているうちに、自分もバカになりたくなる。
夜、帰宅してから俺は考えた。
「くだらないこと……くだらないこと……」
洗面所で歯を磨きながら、鏡に映る自分に問う。
「俺の全力は、どこにある?」
答えは意外と早く出た。
「そうだ、俺はペットボトルのキャップを完璧に水平に回す男になろう」
その夜、俺はありとあらゆるメーカーのペットボトルを開けては閉め、微調整を繰り返した。
翌朝、右手の親指の腹に見事な水ぶくれができていた。でも、キャップは完璧に水平だった。
俺は震える手で写真を撮り、チャットに投稿した。
【エントリー作品:キャップ職人】
「ガチすぎて怖い」「努力の方向音痴」「親指が犠牲になった」などのコメントがついた。
俺は勝ったような気がした。
そして迎えた決勝戦。
エントリーは最終的に20名。
発表会場はなぜか会議室ではなく、会社の駐車場。誰かが勝手に横断幕まで作っていた。
「燃えろ!くだらない魂!」
社員のテンションが完全におかしい。
審査は拍手制。
誰が一番くだらなかったかを、全員で決めるのだが、どう考えても雑だ。
トップバッターの田辺がステージに立ち、「ホチキス針100本まっすぐ伸ばしダンス」を披露。
拍手、爆笑、歓声。
続いて佐々木さんが、ホワイトボードを拭きながら「きれいさNo.1の瞬間」をスライドで発表。
「見て! この曇りのない白さ!」
なぜか拍手喝采。
俺はキャップを片手に緊張していた。
出番が来た。
「えー、私はキャップを水平に閉める技術で挑みました!」
会場が静まる。
俺はゆっくりと、ペットボトルを一周回した。キャップの線が、完璧に本体と一直線に並ぶ。
「おお」
「普通ちょっと斜めになるよな」
「極めてんな」
歓声。スマホのシャッター音。
俺は満足感に全身を震わせた。
そして結果発表。
優勝は——なんと——庶務の新人、斉藤。
彼の挑戦は「社内の全イスの高さを素早くそろえる」だった。瞬時にイスの個体差を見極め、経年劣化でクセのあるレバーも見事に操る技にみんな見入っていた。
くだらない。――が、圧倒的に感動させられた。
俺は拍手しながら思った。
「……負けたな」
でも、笑いながら思った。
くだらないことに全力を出せるって、くだらないのに最高に楽しい。
そして、次の瞬間。
社長が言った。
「次は全社員で全力バカリレーをやるぞ!」
くだらないことに全力出せるのは悪くないことだ。だが——俺たちの会社は、もうダメかもしれない。
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