#492 森の熊田さん

ちいさな物語

ニュースキャスターが真顔で言った。

「本日、午後二時ごろ、紳士風の熊が市内を歩いているとの情報が入りました」

紳士風の熊。その言葉だけで違和感が爆発する。

画面には熊。スーツにネクタイ。手にはブリーフケース。

記者が近づく。

「お仕事中ですか?」

熊はマイクに向かってこう答えた。

「出勤中です」

しゃべった! そして熊が出勤している……。俺はとりあえずテレビを消した。深く考えたら負けな気がした。

しかし翌朝。出勤途中の駅前に、その熊がいた。カフェのテラス席で新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。

「おはようございます」

思わず声をかけてしまった。「テレビで見た人だ!」とはしゃいでいるみたいで、すぐに恥ずかしくなったが、熊は振り向いて丁寧に会釈した。

「おはようございます。いい朝ですね。私は熊田といいます」

熊田……苗字(?)があるのか。しかし自己紹介が自然すぎて、熊であることを忘れる。

「えっと……お仕事は?」

「総務です」

なにがどうして熊が総務なんだろう?

「会社はこのあたりなんですか?」

「森商事という会社です。森の中の商事会社です」

丁寧にも名刺を出してくれる。

『森商事株式会社 総務課 熊田ヒグマ』

本格的だった。名刺から竹のようないい香りがするのも気になる。

その日から、なぜか俺と熊田さんは毎朝駅で顔を合わせるようになった。同じ電車。同じ車両。

満員電車の中で、熊だけ圧倒的に場所を取る。それでも誰も文句を言わない。むしろみんなが礼儀正しく挨拶していた。

「おはようございます熊田さん」

「おはようございます鈴木さん」

完全に人間社会に溶け込んでいる。

ある日、思い切って聞いてみた。

「どうして働いてるんですか?」

熊田さんは遠くを見ながら言った。

「冬眠ローンの返済がありまして」

冬眠ローン。知らない経済圏の話が始まった。

「冬眠って無料じゃないんですか?」

「寝床の確保とか、毛布代とか、意外と高いんですよ。熊ならではの出費なのでピンとこないかもしれませんが」

毎朝の熊田さんとの会話は習慣になっていった。

「ボーナスはどんぐりで支給なんです。でも最近は為替の関係で松ぼっくりのほうが価値が高くて……ちょっと参ってますね」

独特な経済感だ。やはり熊と人は違うのだな。

「うち、社長がリスなんですよ。ちょこまかしてて会議が進まない」

「なんとなく想像できますね」

普通に会話できている自分が怖かった。

一度、熊田さんからお弁当を見せてもらったことがある。竹の皮を開くと、中には鮭。いや、丸ごと鮭。付け合わせにどんぐり……。どんぐりは通貨でもあり、食料でもあるのか。

「豪快ですね」

「小食なんでこれだけです」

やはり感覚が違う……。

会社に戻ると、同僚の山本が言った。

「お前、最近熊と一緒にいるよな。噂になってるぞ」

「いや、ただの知り合いだから」

「熊が知り合いの時点でおかしいだろ」

言われてみればそうだ。

次の週末、熊田さんに誘われて森商事に見学に行くことになった。場所は本当に森の中だった。木の幹にドアがあり、「受付」と書かれていた。

入ると、社員たちは全員動物だった。キツネ、フクロウ、イノシシ、シカ。

「こんにちはー、見学の人間ですー」

誰も驚かない。むしろ拍手が起きた。

「人間の方が来社されたぞ!」

「本物のスーツだ!」

どういうテンションだ。いやいやいや、全員熊田さんのようにしゃべるのか。

会議室に案内されると、リス社長がいた。名刺に『森商事株式会社 代表取締役 リスノフ・ナッツ』と書かれていた。ロシア系?

「人間くん、我々の経済に興味があると聞いたよ」

「いや、実はあまり経済には詳しくなくて。ちょっと興味があるくらいだったんですけど、なんかすみません」

「そうか。それなら君を顧問に任命しよう」

「顧問?!」

「我々も人間くんの意見があれば、もっとうまく会社をまわせる。さあ、決断力が命だぞ」

急かされてつい承諾してしまった。社長というのも伊達じゃない。

『人間顧問』

会議が始まった。議題は『冬眠の国際化について』

フクロウが言った。

「カナダの熊たちは年中冬眠して働かない。これは経済的損失です」

リス社長が机を叩く。

「ならば、冬眠税を導入しよう!」

キツネが即座にメモを取った。税金って会社で決められるもの? しかもカナダの……。

「いいですね社長、睡眠時間課税も検討しましょう」

熊田さんが手を挙げた。

「すみません、人間界では昼寝って課税対象ですか?」

さっそく、人間顧問の出番だ。

「いいえ」

「では、課税は冬眠する種別への差別になりますよ。今は多様性の世の中です」

会議が荒れた。

シカが議事録をかみちぎり、タヌキが妖怪に化けて、フクロウが飛び回る。ついには警備員のスズメが入ってきた。

混乱の中、リス社長が叫んだ。

「我々は森を出る!」

なんで?

しかし、その場の全員が「おおおおおお!」と叫んだ。

次の瞬間、オフィスの床が盛り上がり、建物ごと歩き出した。森商事、移動開始。会社そのもの、いや森ごと動き出した。

道行く人々が叫ぶ。

「森が歩いてるぞ!」

熊田さんが僕に言った。

「すみません、こんな具合なんで来週の会議は山の上でやります」

「山って……どうやって行けば……」

「がんばって登ってください」

そう言って彼は歩いて行った。

夕暮れ、空を見上げると、森商事がゆっくりと山を登っていた。

……あれ以来、ニュースでは森商事の話題が尽きない。

「移動型企業、世界初の上場」

「動物株が爆上がり」

今日も駅前のカフェで熊田さんと会う。

「最近どうですか?」

「うーん、社内が騒がしいのでリモートに切り替えました。会社が移転してしまって通勤も困難ですし」

「テレワークですか」

「家の近くの木の上でやってます」

彼はスマホを取り出し、爪で器用にスワイプした。

画面に映ったのは、枝の上でパソコンを叩く熊田さんの姿。ちゃんとヘッドセットもしている。

「すごいですね」

「働き方改革です」

僕は笑ってコーヒーを飲んだ。

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