その朝は、特に変わったことなんてなかった。いつも通り、7時にアラームを止め、トーストを焦がし、ニュースアプリを開きながらコーヒーをすする。
ただ一つだけ違っていたのは、繁忙期のための十連勤で体がぐだぐだになっていることと、Wi-Fiの電波がやけに弱かったことだ。
「またかよ」
うちのルーターは古い。たまに機嫌を損ねる。でも、出勤時間が迫っていたから、気にも留めずスーツに袖を通した。
鏡の前でネクタイを締める。その瞬間だった。
――ぷつん。
空気が一瞬、静まり返った。
スマホの画面を見ると、Wi-Fiのマークが消えている。やばい。会社から連絡があっても気づけないじゃないか。
「電波が切れたのか」と思い、ルーターのランプを確認する。だが、点滅していない。
いや、それ以前に、部屋全体が無音だった。
窓の外を見ると、通勤ラッシュのはずの通りに誰もいなかった。車も、人も、犬も。なぜか風の音だけが、ひゅうひゅう鳴っている。
スマホを握る。
再起動しても、電波は戻らない。ニュースも、メールも、SNSも開けない。そこに表示されたのは、見慣れない通知だった。
《社会との接続:いったん不明》
ふざけたエラーだ。
でも、それを見た瞬間、背筋がぞくりとした。まるで世界そのものが、俺を「オフライン」にしたような気がした。
急いで会社に向かう。
けれど、オフィス街は静かで人がいなかった。ドアに手をかけると、まるで映像の中のものに触れたみたいに、指がすり抜ける。
「おい……冗談だろ」
焦って外に出ても、どこへ行っても同じだった。コンビニの明かりは点いているのに、中には誰もいない。交差点の信号だけが、青と赤を虚しく繰り返していた。
けれどどこかで「今日は仕事しなくていいな」と安心する自分がいた。いっそこのまま戻らなくてもいいかもしれない。
俺はポケットの中でスマホを取り出す。
「接続:いったん不明」
歩きながら、ふと思い出した。昔、母親が言っていた。
「ネクタイって、首輪みたいなものよね」
そのときは笑った。
でも今思えば、あれは社会へのリードだったんじゃないか。俺たちは毎朝、自分の意志で首を締めて、社会につなげていたんじゃないか。
試しにネクタイを緩めてみた。その瞬間、スマホの画面がちらりと光った。
《接続再試行中》
息を呑んで、もう一度締める。電波が途切れる。
緩める。戻る。
締める。途切れる。
まるで、ネクタイが世界へのスイッチになっていた。
俺は途方に暮れて、ベンチに座った。空には雲が流れている。時間は進んでいるようで、進んでいない。音がすべて遠くに行ってしまったみたいだった。
ポケットの中で、スマホが小さく震えた。画面には、一つのメッセージが表示されていた。
「ネクタイを外しなさい」
驚いて辺りを見回す。誰もいない。だけど、どこかで聞き覚えのある声がした。
「無理しなくていいよ」
「誰だ?」
「ずっと見てた」
耳の奥で、柔らかな声が響く。それは、母親の声に似ていた。
「ネクタイを外しなさい。息ができないでしょ」
気づけば、胸の奥が苦しかった。
ネクタイがやけにきつく、首に食い込んでいた。指をかけて外すと、ようやく空気が入ってきた。
その瞬間、街のざわめきが戻ってきた。車の音、人の声、アナウンス。スマホの通知が一斉に鳴り始めた。
ああ、戻ってきたんだ――社会に。
でも、ふと見ると、手に持ったネクタイが濡れていた。雨じゃない。涙だった。いつの間にか泣いていた。
あの声が、まだ耳の奥に残っていた。
「無理してつながらなくていいのよ」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと痛くなった。
俺は、ネクタイをカバンの中にしまった。代わりに、上を見上げた。
スマホが再び震えた。
《社会との接続:再開しました》
その文字を見て、俺は微笑んだ。たぶん、俺はもう前みたいには戻れない。けれど、今の接続は、少しだけ本物に思えたんだ。
空は広くて、風は優しかった。
今はもう、あの細い布に縛られずに、ちゃんと呼吸できている。
世界のWi-Fiが切れても、心の中の接続だけは切らないようにしよう。ただ静かに、自分自身に向かって。



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