#510 階段に海苔巻き

ちいさな物語

最初に違和感を覚えたのは、駅の階段の踊り場だった。朝のラッシュ、足元を見たとき、そこに海苔巻きが落ちていた。

一本まるまる、きれいにラップで包まれている。

誰かが昼食用に持ってきたものを落としたんだろうと思った。しかし、踏まれも汚れもしていない。まるで、誰かがきちんとそこへ置いたみたいに見えた。

立ち止まるのも変だから、そのまま通り過ぎた。

次の日も、同じ場所にあった。

昨日とまったく同じ見た目の海苔巻き。昨日のものが残っているのかとも思ったが、清掃員がいるのにさすがにおかしい。

誰かのイタズラか、変な儀式か。だけど、周囲の人は誰も気にしていなかった。誰も見ない。楽しそうにつるんでいる学生たちもそこを素通りする。話題にもしない。

三日目。

俺は試しにスマホで撮ろうとした。カメラを向けた瞬間、画面が真っ黒になった。再起動しても治らない。

そのとき、背後で声がした。

「写真は、やめといた方がいいですよ」

振り返ると、駅員が立っていた。中年の、どこにでもいるタイプの駅員だ。俺は気まずくなってスマホをしまった。

「すみません、変な物が置かれてたので」

「ええ、わかります。でも、それは気にしない方がいいです」

「……何かあるんですか?」

「いえ。ただ、そういうことになってます」

そういうことになってます? どういうことなんだ?

その日、会社でも集中できなかった。頭の中で、あの海苔巻きがぐるぐる回る。

四日目の朝。

海苔巻きはなかった。ほっとした反面、妙な物足りなさがあった。昨日まであったものが消えると、世界の形が少し違って見える。

階段を下りきったところで、見知らぬサラリーマンが笑いながら言った。

「今日はないですね」

思わず立ち止まった。

「海苔巻き――見ていたんですか?」

「ええ、そりゃあ、毎日ありますからね」

「でも誰も気にしてなかったように……」

「見えてないんですよ。見えない人もいるんです」

「そんな……。なんなんですか、あれは?」

サラリーマンは口元だけで笑った。

「さあね。気にしない方がいいですよ」

電車が来る音で会話は途切れた。

駅員と同じことを言う。その男は乗らずに、反対側の階段を上がっていった。俺は妙な寒気を覚えた。きっと気にしない方がいいものに違いないのだろうが……。

五日目の夜。

残業で終電になり、駅は人もまばら。あの階段を降りると――海苔巻きが戻っていた。しかも、二本になっている。

一つは普通のサイズ。もう一つは短く、端が切られたような形だった。そして、短い方はラップが剥がされていた。

そこに目玉がついていた。白く濁った人間の目玉のようなもの。俺は息をのんで後ずさる。ラップの中で目玉がわずかに動く。きょろきょろと辺りを警戒しているようだった。

逃げるように階段を駆け下りた。電車に飛び乗り、ドアが閉まった瞬間、うるさいほどの心臓の音を感じた。

だが、もっとおかしいのは――隣の乗客が、顔半分を海苔で覆っていたことだ。

黒い海苔が頬に張りついて、まるでマスクのようだった。しかも、その人だけじゃない。向かいの席の女も、立っている学生も。全員、顔のどこかに海苔をつけている。

俺だけが異物のように、真っ白な顔で座っていた。

「……何だ、これ」

誰も反応しない。彼らは淡々とスマホを見て、うつむいている。黒い海苔が口のあたりで動いたように見えた。しゃべっているのか? 海苔がしゃべっている?

電車がトンネルに入った瞬間、照明が一瞬落ちた。その暗闇の中で、確かに聞こえた。

「見えているやつがいる」

誰かの囁き声。なんとなくあの海苔巻きがしゃべったような気がした。

灯りが戻ると、海苔が消えていた。全員、普通の顔に戻っている。まるで何事もなかったように、スマホを見つめていた。いつも目にする光景だ。

しかし俺はもう限界だった。

次の日、駅に行くと、階段の踊り場にはまた海苔巻きが一本。昨日までのものより大きい。きっと中には目がついている。

俺はもう通り過ぎることができなかった。近づいてしゃがみ込み、そっと覗き込む。やはり先日と同じような目玉がぎょろりとこちらを見ていた。その瞬間、背後から声がする。

「見ちゃいましたか」

昨日の駅員だった。笑っている。だが、目の下が異様に黒い。海苔のような色。

「言ったでしょ。触らない方がいいって」

「これ、何なんですか」

「何かはわかりませんが、そういうものがあるんです。そのまま受け入れるしかありません」

「こんなもの、今まで見たことがない!」

「今回は海苔巻きの姿ですが、ぬいぐるみだったり、お弁当だったり、片っぽの手袋だったり……いろいろですよ。見たことあるでしょう」

そう言って、駅員は海苔巻きを手に取り、ラップを剥がした。べりりっとホラー映画で聞くような皮膚の剥がれる音が響く。

駅員はそれをひと口かじった。パリッという音と同時に、血の臭いが広がった。

「……どのような姿でも、我々の食料になるのだがね」

その口元が血に濡れていく。俺は階段を転げるように逃げ出した。

今、駅には行っていない。会社もやめた。外に出るのが怖い。

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