最初にそれを見たのは、長雨があがった後の湿気の多い朝だった。
通勤前に家の前を掃いていたら、足元の側溝のフタがガタリと動いた。
猫でも入り込んだのかと思って覗きこむと、そこから人の頭がぬっと出てきた。
「うわっ!」とのけぞった俺に何食わぬ顔で「おはようございます」と挨拶をする男。
年の頃は三十代半ば。黒縁眼鏡に無地のシャツ、見た目はごく普通の会社員。けれど彼が出てきたのは、道路の側溝の中だ。
「……あの、どちらさんですか?」
「隣の下です」
「え?」
「お隣の、下の者です」
そう言って、男はにこやかに会釈し、鞄を持ち直してスタスタと歩いていった。あっけにとられて見送っているうちに、角を曲がって姿が見えなくなる。
妻に話したら、最初は笑っていた。
「また寝ぼけてたんでしょ。夢でも見たんじゃない?」
だが翌朝、彼はまた現れた。
側溝のフタがガタリと開いて、彼が顔を出す。
「おはようございます」
昨日と同じ声、同じ笑顔。違うのはネクタイの色だけだ。
「今日もお仕事ですか?」と聞くと、彼はうなずいた。
「ええ、外回りです。上の方々には、いつもお世話になってます」
上の方々?
「ど、どこにお住まいなんですか」
「すぐ下ですよ。ああ、また夕方には戻りますので」
彼はそう言って去った。
俺はすぐに側溝のフタを外して中を覗いた。真っ暗で、湿った匂い。ただの排水管のはずなのに、奥の方に明かりのようなものが見えた気がした。
数日後、今度は妻もその光景を見たという。
「ほんとに側溝から人が出てきた……」
「だろ?」
俺たちは顔を見合わせた。
彼は朝、「おはようございます」と言い、にこりと笑って去っていく。どこへ行くのかはわからない。
その夜、俺は決心して懐中電灯を持ち、側溝のフタをそっと開けた。妻も気になるらしくついてきた。
湿気っぽい。だがすぐに気づいた。壁の内側に階段がついている。
妻が「やめなよ」と腕を引いたが、好奇心が勝った。妻を地上に残したまま、そこに足を踏み入れる。階段は思ったよりしっかりしていた。
コンクリートではなく、しっかりと固められた土。古風なランプの明かりが点々と続いている。どこまで続くんだと思いながら降りていくと、空間がひらけた。そこには部屋があった。
畳、ちゃぶ台、電球。部屋全体から砂糖菓子のような匂いがする。
通路で扉のないいくつもの別の部屋と繋がっているらしい。
奥の部屋で、数人の女性たちが忙しそうに働いていた。
スーツ姿の人もいれば、エプロン姿の人もいる。みんな、見た目は普通の人間だ。
だが、動きが変だった。
まるで見えない指令に従うように、同じ動作を繰り返す。そして互いにぶつかると、小さく謝ってまた同じルートを歩く。
「すみません、どちら様ですか?」
突然声をかけられた。
あの男だ。
「いや、あの、上に住んでる者ですが」
「ああ、朝お会いする――いつもお世話になっております。人間の顔は見分けがつかなくて、失礼しました」
彼は恭しく頭を下げた。
「ここは……何なんです?」
「地下集合住居です。我々、ヒトアリの」
「ヒトアリ?」
「はい。人間の形をしていますが、どちらかというとアリです。毎日、採取で上の方々のお世話になっています」
「採取って?」
彼はにっこり笑い、壁際の壺を指さした。中には白い粉がぎっしり詰まっていた。
「砂糖です。我々の食料です」
「砂糖? そんなもの、どうやって——」
「上の方々の台所から、少しずつ」
ぞっとした。確かに最近、砂糖の減りが異常に早かった。
「まあ、害はありませんよ。私たちは共生を目指す種族ですから」
彼はそう言い、にこりと笑った。だがその笑顔がどこか、粘つくように感じた。
翌朝、側溝は静まり返っていた。フタを開けても今日は誰もいない。
「夢だったのかな」と思った。しかし、妻も「最近、砂糖の減りが早い」と言っていたので、自分だけの思い違いとは考えられない。
夜、耳を澄ますと、床の下から微かな音がした。何かが下で動いている? まるで、無数の足音のようだ。
それから数週間。俺も妻もすっかり慣れてしまった。砂糖が減ることも、側溝から人が出てくることも……。
あの男は相変わらずに、「行ってきます」と声をかけてくる。床下の音は続いている。時々、玄関に砂糖が落ちている。
お礼のつもりなのだろうが、葉っぱや木の実が落ちていることもある。共生、という言葉が脳裏をよぎった。
昨日、会社の帰りに隣の奥さんに会った。彼女がぽつりと言った。
「最近、うちの床下に小さな穴があってね。砂糖の減りが異様に早くて。アリ……なんだと思うんですけど」
奥さんは何かを探るようにこちらを注視している。さては、あの男を見てしまったんだろう。こちらにも出てくるのか探っているようだ。
「へえ……」
「お宅には出ませんか? アリ」
「うーん、どうでしょう」
俺は笑ってごまかした。
よくわからないので、アリの件にはあまり深入りしたくはなかった。あんな連中が存在することを認めたくなかったのかもしれない。
夜、家に帰ると、リビングの隅に小さな紙切れが置かれていた。
『いつもお砂糖、ありがとうございます。ご協力、感謝します。』
文字は丸くて丁寧で、書き手の几帳面な性格が現れているようだった。
――側溝の男の、あの字だ。その下に、ひとことだけ添えられていた。
『今後ともどうぞよろしくお願いします』



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