ベランダや手すり、エアコンの室外機、その隅々まで白や灰色の斑点が散らばっている。
昨日の夕方に掃除したばかりなのに、もうこんなに汚れている。
「チッ……」
俺は舌打ちして窓を閉めた。原因はわかっている。隣に住む、あのじじいだ。
じじいのベランダには、いつ見ても鳩が十羽以上たむろしている。まるで鳩用のカフェのテラス席だ。
朝は朝で「くるっくほっほー」と変な声を出して鳩と会話しているし、夜になればベランダの床にエサをまく。隣人の苦労なんて露知らず本人は平気な顔で生きている。
それに――あのじじい、首の動きがおかしい。
普通、年寄りはもっと動作がゆっくりしているものだが、あいつは違う。やけに俊敏で、歩くときに首をカクッ、カクッと前後に動かすのだ。まるで鳩の化身――いや、鳩そのもの。飛べないだけのでかい鳩だ。
正直、見ているだけで気味が悪くて鳥肌が立つ。
そんなある日、事件は起きた。
——カンッ!
朝、ベランダで洗濯物を干していたとき、物干し竿に何かが当たった。見ると、小さな白い石が足元に転がっている。いや、ただの石ではない。鳩の羽根やフンがこびりつき、固まったものだ。
「うわっ」
俺は声をあげて、手にした石を放り出す。
「もう我慢できねぇ……!」
俺はエプロンを外し、勢いのまま隣の部屋のインターホンを押した。
じじいはすぐに出てきた。相変わらず首をカクカクさせ、つぶらな目の奥を輝かせている。目まで鳥類なんだよ。
「……なんじゃい、若いの」
「鳩、餌付けするのやめてくださいよ! こっちは毎日迷惑してるんです!」
じじいは一瞬目を見開いた。「鳩が豆鉄砲を――」という慣用句が頭に浮かぶ。それからゆっくり口を開いた。
「やめろと言われてもなァ……わしの務めでしてなァ……」
務め?
その言い方に違和感を覚えた俺は、思わず聞き返した。
「務めって……鳩の餌付けが?」
じじいは笑った。いや、笑ったように見えただけかもしれない。口角は上がらず、目だけが細くなっていった。
「いやいや。わしは鳩の神様なんじゃよ」
「…………は?」
一瞬、理解が追いつかなかった。けれど、目の前のじじいは本気らしい。
「鳩の神様……?」
「そうよ。はるか昔、人間がまだ土器を使い始めた頃から、鳩を守り、導くのがわしの役目じゃ」
じじいは胸を張る。
「ご利益は?」
「特になし」
即答だった。
俺は言葉を失った。
神様がご利益なし? そもそもマンション暮らしの神様がいてたまるか。
呆然とする俺をよそに、じじいはベランダのほうを指した。
「見てみぃ」
俺は恐る恐るじじいの部屋をのぞいた。
次の瞬間、息をのんだ。
鳩がいた。いや、鳩だらけだった。
床にも、棚にも、タンスの上にも、信じられないほどたくさんの鳩がひしめいている。それなのに、とても静かだ。まるで呼吸するようにじじいの動きに合わせて首をカクカクと動かしていた。
その動きが、不思議とそろっているのだ。まるでじじいが鳩の王で、鳩たちが家臣であるかのように。
「わしはのう、鳩が人間と手を取り合って仲良くできるようにこの世界にとどまっておる。昔はもっと優しくされとったのにな。手紙を運ぶ仕事もあった。今は……まあ、寂しいのう。公園で餌をくれる人も減った」
じじいは肩を落とす。
「鳩は、人間が思うよりずっと賢いんじゃよ。人間の描く地図の読めぬ神様もおるが、鳩はちゃんと地図が読める。小さな頭の中にちゃんと地図が入っておるんじゃ。そもそも地図という概念を人間に教えたのは鳩なんじゃよ」
いや、ちょっと……、何を言っているのかさっぱりわからない。
「最近は菌を媒介するとか言われて毛嫌いされての……まあ、そういうこともあるかもしれんが」
「とにかく! どうして俺の家に鳩が来るんです?」
じじいはきょとんとした。
「わしの家のほうが居心地ええんじゃが、たまに隣に遊びに行くんじゃよ。若い匂いがするからのう」
「……若い匂い?」
「おぬしの家はの、鳩にとって運気がいいらしい。若者の住む場所には総じてエネルギーが集まる」
そう言ってじじいは首をカクカクさせた。
その瞬間、じじいの背後にいた鳩たちが一斉に羽ばたき、ベランダの外へ飛び出した。
そして俺のベランダのほうへ嵐のように降り立っているのがちらちらの視界に入る。……どうせまたあの斑点が、ベランダ中に点々と広がっているのだろう。
俺は頭を抱えた。
じじいは笑った。
「まあ、そう怒るな。鳩はの、幸運を運ぶんじゃ」
「さっきご利益はないって言ったじゃないですか」
「わし、鳩の神は人間にご利益はもたらさない。だが鳩は人間に幸運をもたらす」
じじいは得意げに言った。
「それ本当ですか?」
まったく理屈がわからない。ただ、ひとつだけはっきりしている。
隣のじじいが神様であろうと、鳩を愛する存在であろうと――俺の掃除が減るわけではない。
じじいは最後にこう言った。
「また困ったことがあったら遠慮なく言うてくれ。鳩に伝えておくからの」
伝えるだけで全然改善されないじゃないか。
じじいは首をカクカクさせながらドアを閉めた。
その動きがあまりにも鳩そっくりで、俺はなぜか笑ってしまった。腹立たしいし、気持ち悪いのに、なんとなく「まぁ、いいや」という気になってしまった。
結局、俺はまた鳩を追い払ってベランダを掃除する。じじいの「くるっくほっほー」という声と鳩のざわめきが、今日も壁越しに響いてくる。
どうやら――このマンション生活は、まだまだ波乱が続きそうだ。



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