森の入り口に、見たこともない色のきのこが生えていた。そのことには意外と多くの人が気づいていたが、それが胞子を吐き出し始めた瞬間から、すべてが狂い始めたのだった。
はじめは地元ニュースでのんきに「珍しいきのこです!」なんて報道していたが、翌週には同じ場所を取材したキャスターが生放送中に突然コモドドラゴンになり、日本中が震え上がった。
その後の調査でわかったことだがそのきのこの胞子を吸うと変身する――らしい。しかもだ。変身した姿に一切の規則性がない。動物ならまだマシな方だ。
昆虫、植物、変なおじさん、文房具、食品、果ては工事現場の三角コーンまで、ありとあらゆる可能性を秘めていた。
ある日、通勤中、電車で俺の前に立っていたサラリーマンが急に光ったと思ったら、その場にクリップがカシャンと落ちた。
車内に沈黙。
次の瞬間、隣の女子高生が震える声で叫んだ。
「めっちゃ使いやすそうなクリップになってる」
いや、そのコメントで大丈夫か?
もちろん騒ぎは街全体を飲み込んでいく。
役所も大混乱だ。市長が記者会見で「ええ、市民の安全を最優先に――」と言ったその瞬間、市長は巨大な観葉植物に変身し、会場はしんと静まり返った。大柄な男性が静かにその観葉植物を裏に下げた。
俺も笑っていられない。
仕事の帰り道、鼻がむずむずして思い切りくしゃみをした瞬間――
ふわっと白い霧のようなものが迫ってきて、それを思い切り吸ってしまった。これは風に乗った白い胞子の霧である。この街でこれを知らない人はいない。
「うわあああああ!」
慌てて手で払うが、もう遅い。まずい。絶対まずい。俺は急いで自宅の風呂場に駆け込み、鏡を凝視した。
「落ち着け……落ち着くんだ……!
俺はコモドドラゴンにもクリップにもなりたくない……!
すると、耳のあたりがムズムズと熱くなり、身体がふわっと軽い。
「や、やばい来た……!? 変身するのか?」
俺は祈るように目を閉じ――そしておそるおそる開いた。
……何も変わっていなかった。いや、一周回って俺に変身したのか?
「……セーフ?」
安堵して床にへたり込んだそのとき、スマホが震えた。親友のタクミからのメッセージだ。
《助けて。俺いまバナナ》
電話してみると、スマホの向こうから「皮むかないでね。絶対だからな?」と切実な声が聞こえた。
俺は急いでタクミの家へ向かった。
玄関を開けると、テーブルの上に立派なバナナが一本。
しかしそのバナナ、うねうねと身じろぎしている。そんな姿でも動けるのか。不憫だ。
「……本当にバナナだな」
「そんなの見てわかんだろ」
笑ってはいけない。笑ってはいけないのだが、目の前の親友がバナナである事実がじわじわ効いてくる。
「心配するな。俺が必ずお前を戻す方法を――」と、アニメの主人公のようにキリッと決めようとした瞬間、「ドゥフフ」とオタクのような声が漏れてしまった。
「なにオタク笑いしてんだよ」
「いや、すまん。バナナとかマジで面白すぎるわ」
そしてまた、部屋の窓の外に、巨大な白い胞子の霧がもくもくと漂っているのが視界に入った。
「おいおい、ちょっと待て……でかいぞ! あれは絶対まずいやつだ」
「逃げろおおおおおおお!」
しかし遅かった。
まるで意思があるかのように、窓から胞子が雪崩れ込んできた。
俺は全速力でバナナを抱えて風呂場に逃げ込む。
「タクミ! 落ち着け」
俺はタクミの皮をカリカリ引っ搔いた。
「いや、お前が落ち着け。引っ掻いたとこが茶色く変色するじゃないか」
そのまま俺も再びくしゃみが止まらなくなる。
「やばい……今度こそ変身してしまう!」
耳がまたムズムズし、頭がふよんと軽くなり、視界が回転した。
そして。
「……え、俺……アイスクリーム?」
頭の上からひんやりした重さが伝わる。
鏡を見ると、俺の頭がとんでもなくおいしそうなソフトクリームになっていた。
「うわああああああ! なんで頭だけ? 全身じゃないの。頭だけアイスって、中途半端か!」
「うんこかぶってるみたいだな。――ってか、まずいぞ。お前、暑いところ行ったら、頭ドロドロに溶けるじゃん」
タクミバナナは俺が自分よりヤバいことになっているからか、ちょっと声が笑っている。
「マジかよ! 死ぬの? 俺、死ぬの?」
「落ち着け、落ち着け」
「ってか今日、仕事あるんだけど。この頭で行ったら、即クビだよな」
「いや、みんな事情はわかるだろ。街中みんなこんなんだぜ? そんなことより溶ける方がヤバいだろ」
しかし悲劇は続く。
風呂場の天井から、かつてないほど巨大なきのこがにょきにょきと生え始めた。
「ええええ! これ、アレじゃん、あのきのこじゃん」
胞子が再びぶわっと舞い、視界が白く染まる。
タクミが叫ぶ。
「やばい! 俺さらに変身するかもしれん。バナナの次はなんだ? もう食品系はやめてくれ」
俺は叫ぶ。
「次はせめて便利かつ、動きやすいのにしてくれ!」
しかし白いもやの中から聞こえてくるのは――「みんな仲良く変身しちゃおうね〜」と、妙に陽気な声。
風呂場の天井のきのこもしゃべっていた。きのこの声が胞子で媒介されるかのようにエコーがかって広がっていく。
「え……このきのこってしゃべんの?」
きのこはニヤリとした(気がした)。
「これから街のみんなをね、もっと面白いものにしちゃうよ〜。君たち、まだ余白があるよね? 変身の可能性って無限大なの!」
余白?
タクミが震える声で言った。
「……なあ。これ、俺らの人生どうなるん?」
俺はソフトクリームの頭を抱えながら答えた。
「知らん。けど、一回落ち着いてお茶と甘いものでも食べようか」
すべてを放棄して風呂場を立ち去ろうとした俺にタクミバナナが冷たく言い放つ。
「俺たちが甘いものなんだよ」
こうして、街は今もきのこによる無法地帯。だが俺は誓った。
絶対に元の姿に戻る。
そしてあのきのこを殲滅する。絶対だ!



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