骨董屋で縁切り鋏というものを手に入れた。
見た目はただの古びた鋏で、刃は少し欠けていた。
骨董店の主人の話によると――
「その鋏で縁を切りたい人の名前を書いた紙を切るとね、その人の記憶から君が消える。便利だろ?」
「便利」という表現が何か違うような気がしたが、単純に興味がわいた。
「ただし、間違えるとね……大事な人からも君の記憶が消える。使いどころは慎重に」
主人はそれだけ言って奥へ引っ込んだ。なんだかあまり説明したくなさそうだ。
半信半疑で持ち帰ったものの、鋏は確かに力を持っていた。
最初に使ったのは、会社でやたらと僕にだけ怒鳴り散らす先輩だった。
課は違うが、以前うちの部署に回した仕事で伝達ミスによる不手際があったらしく、逆恨みのように嫌がらせをしてくる。僕はその件にあまり関係がなかったが、一番若手で立場が弱いからだろう。
とにかく、試しにその先輩の名前を書いた紙をその鋏で真っ二つに切った。その翌日、先輩は僕の前をすっと通り過ぎた。完全に「知らない人」みたいな顔で。
驚きはしたが、心は軽くなった。以後、必要以上に関わってくることもない。たまに「こんなやついたっけ?」という不思議そうな顔で僕を見ているのがおかしい。
それから僕は、少しずつ鋏の力を使うようになった。
執拗に話しかけてきては、説教じみたことばかり言ってくる近所の迷惑おじさん。
学生時代に何かとマウントをとってきた旧友。こっそり僕の弁当を盗み食いした同僚(嘘だと思うだろ? 本当なんだ)。
彼らの名前を書いた紙を切るたび、すっきりした。
しかし、縁を切った直後、奇妙な感覚が残った。胸の奥がふっと空洞になるような、何かが削り落ちるような……。
少し気になったが、快適さに負けた。何しろ、関わりたくないと思えばこちらから簡単に、嫌な思いをすることなく縁が切れるのだ。
そして鋏を使う頻度は増えていった。
ある日、机の上の切れ端の束を整理していると、妙な不安が走った。
誰の名前を切ったのか、いくつか思い出せない紙がある。
その夜、なんとなく妹に電話をかけた。
妹とは仲がよく、何かあると妹の方からよく電話がかかってきた。「何か」といっても会社の愚痴とか、彼氏ののろけ話とか、そんな類の話ばかりだ。しかし、「話のわかるお兄ちゃん」を演じられるのは悪い気分ではない。
最近、その電話がまったくかかってこないので、ふと声が聞きたくなったのだ。
しかし少し長いコール音のあと、女性の不審げな声が聞こえた。
「……はい、もしもし。どちら様でしょうか」
番号を間違えたかと思ったが、画面には確かに妹……「マナミ」と表示されている。声もかなり似ているが……。
「あの……電話番号を間違えたかな。横井マナミにかけたんですが」
「横井マナミは私ですけど……あの、本当にどちら様です?」
全身が冷えるような感覚がした。妹の記憶から自分が抜け落ちている?
まさかと思い、机の引き出しを開ける。そこには無数の切れ端。どれが誰だったのか、もう曖昧だ。
「――切りますね」
妹はこちらの返事も待たずにブツッと電話を切ってしまった。
いやな予感が胸を締めつけた。僕は――妹の名前を切ってしまったのか。いや、そんな間違いはありえない。
紙の切れ端をガサガサとあさった。そしてとんでもないことに気づいた。縁を切るときに使っていた紙は妹が置いていったメモ用紙だったのだ。
妹は反古紙を半分に切って大きめのクリップでまとめ、それをメモ用紙にしているのだが、それは不要になった役所からの案内文、電気やガスのお知らせなども含まれていた。そこに妹の名前が記載されていても不思議ではない。僕は気づかずにそれを切ってしまったのかもしれない。
僕は嫌な人と関わらずにすむ快適さに溺れて、盲目的に鋏を使いすぎた。裏紙に何が書いてあるのか、確認もしなかった。
これ以上使えば、取り返しのつかないことになりそうだ。鋏と僕の縁を切らなければ。
僕は新品のコピー用紙にこう書いた。
「鋏」
刃を閉じた瞬間、空気が弾けるような音がした。視界が揺らぐ。音が吸い込まれるように消え、気づくと鋏は手から消えていた。増え続けていた鋏で切った紙もすべて消えていた。胸の奥だけがぽっかりと空いたまま。
だが問題はここからだった。
失った縁はどうなるのだろう。僕を忘れた人たち――妹は?
そしてふと思った。
縁を切れる鋏が存在するなら、「縁を戻す方法」も、どこかにあるかもしれない。
僕はあの骨董屋にもう一度行ってみることにした。
夕暮れの路地裏。古びた木戸。薄暗い店内の照明。店の様子は全部細かに覚えている。
だが――。
そこに店はなかった。
代わりに、小さな空き地があるだけだった。雑草が風に揺れている。建物が取り壊された跡すらない。
僕は近くのクリーニング店に入って尋ねた。
「あの……この近くに骨董屋がありませんでしたか? 高齢の男性が一人でやってる」
店主は首を傾げた。
「いやぁ、少なくとも二十年はないね。あそこならうちが店始めた時からずっと空き地だよ」
別の商店でも聞いた。答えは同じだった。
「骨董屋? いやぁ、聞いたことないねえ」
「昔も今も、ここに店なんてなかったよ」
世界から消えただけではない。最初から存在しなかったかのように扱われている。
もしかして僕が「鋏」を鋏で切ったから、おかしなことになってしまったのか?
だとすれば、僕が縁を切ってしまった人たちの記憶は――?
夕暮れの光の中、空き地の草だけがざわざわと揺れていた。
僕はしばらく立ち尽くし、ゆっくり背を向けた。
縁切り鋏のことを、もう証明するすべはない。誰も信じないし、存在すら知らない。
ただ、胸の奥の空洞だけが、消えた鋏の存在をささやいていた。
――あれは、本当にこの世界の道具だったのだろうか。
風が吹き抜け、草がまた小さく揺れた。まるで返事をしているように。
そういう種類の縁も、世の中にはあるのだろう。
僕はもう一度妹に電話をかけてみた。――しかし、着信を拒否されているようだった。



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