幼いころから幽霊が見えると言うと、人は決まって「え、怖くないの?」と聞いてくる。
正直、怖いというか――意味がわからない。
そもそも本当に幽霊と呼んでいいものなのかもよくわからない。元は生きていた人間という証明がどこにもないし、その「幽霊」自身もわざわざ説明してくれない。
たとえば昨日、僕の部屋の机の下にいたのは、全身が透明のまま「今マラソンの途中なんだけど、ちょっとここで休ませて」と言ってしゃがみこんでいた。なぜ幽霊がスタミナ切れを起こすのかは知らない。
一昨日の幽霊は、足がカニでできていて、ガサガサと音を立てながら「今日の天気は左回転です」と報告して消えた。これを幽霊と呼んでいいのか、疑問に思う気持ちもわかってもらえると思う。
しかし、天気に回転方向があることを、僕はそのとき初めて知った。何が回転するのかはまだわからないが。
月曜の朝の幽霊に至っては、洗濯機の中で体育座りして「落ち着く〜」と言いながらぐるぐる回っていた。回っている理由は聞かなかった。
そんな感じで、怖いより先に謎が深すぎて処理が追いつかない。
ある日、僕が駅前を歩いていると、突然ビシッと敬礼してくる幽霊がいた。
スーツ姿だが胸から上が半透明で、足はタコ足で、背中にがんばれと書いたのぼりを背負っている。
「きみ、私のような存在がわけがわからないと思っているね?」
初めての展開だ。心を読まれた。
「五感で捉えられることがすべてだと思っている」
「えっと、まあ……あなた方のことを不思議に思っていたのは確かにそうなんですが」
「人間には分からないことがたくさんある。世界には五感どころか、二百六十四感まで存在するのだ!」
いくらなんでも多すぎないか。
「たとえば汁感。これは空気に含まれる汁気を感じ取る能力だね」
世界の秘密を知れるかもしれないと少しばかり期待したが、ガクッと力が抜けた。汁気なんて別に感知したくないし、湿気は五感で十分感じ取れる。
「深夜テンション感もある。一晩あればなんでもできる」
そんなものを感知する能力はいらない。
「そしてごはん三杯いける感。これはごはん三杯いけるときに感じる感覚だ」
もうただの感想というか、フィーリングの話をしている。
幽霊はズイッと顔を寄せてきた。もちろん半透明だから迫力はゼロだが。
「人間が扱えるのは、せいぜいそのうちの六つくらいさ。つまり、君たちは世界のほぼ全部を見逃している」
背後でタコ足がビタンビタンしていて話に集中できない。
「あの……でも僕があなた方を見ることができるのは何感なんでしょうね」
霊感――と言われると思っていたが。
「それは単に、君の五感が『ずれている』からだね。ずれた人には、ずれたものが見えるのだ」
そう言いながら、幽霊はタコ足で地面に「ずれ」と書き始めた。やかましいな、こいつ。
「じゃあ……他にもいろいろずれたものが見えるってこと?」
「見えるとも! 今だって君の肩の上に見えないけど存在するモノが乗っているよ!」
「えっ」
パッと肩を見るが、もちろん何も見えない。急に本格的な心霊話をぶち込んでくるじゃないか。
幽霊はニヤリと笑った。
「見えないし触れないし聞こえないし匂わないし味もしないけど、確かにそこにいる」
それ存在って言うのか? 感知できないものはないも同然ではないか。
「そいつの名前は『ついでに置かれてるもの』。特に用はないが、とりあえず肩に乗ってくる存在さ」
なんだその、微妙に哲学っぽい存在は。
「で、そいつ、何してくるんですか?」
「とくに何もしない。そのうち消えるだろう」
本当に意味がないな。さらに幽霊は続けた。
「君たち人間は理解できるものだけが世界だと思い込んでいる。だが本当は、見えないもの、意味のわからないものが圧倒的多数だ。すべてが理解できるべきと考えていると足元をすくわれるぞ」
なんかちょっといいことを言っている?
「それなのに、人間は幽霊だけを怖がる。見えるから怖い? 違う違う、見えるのはまだマシだよ。恐れるべきは――」
幽霊は僕の肩の辺りを指差した。
「見えないものたち」
肩の辺りがぞわぞわっとした。何かが動いたような? いや、気のせいか。もちろん見えない。何も感じない。
幽霊はのぼり旗を振りながら笑った。
「つまり世界はきみが思うよりずっと広く、きみたちには全部を理解できないということ」
そう言い残し、幽霊は駅ビルの壁にそのまま吸い込まれていった。タコ足がビタンビタンと遠ざかっていく音が長く聞こえていた。
帰り道、ふと肩が軽くなった。たぶん「ついでに置かれてるもの」が去ったのだろう。
世界は怖いほど複雑で、意味不明だ。そして、また僕の前を何か透明なものが通りすぎたような気がした。
「……まあ、別に害ないならいいか」
そう言いつつも、「恐れるべきは見えないものたち」という言葉を思い出して少しだけ怖くなった。



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