あの時の話をすると、決まってみんな笑うんだ。「ストレスで頭がおかしくなったんじゃない?」なんてね。
でも嘘でも冗談でもない。本当に起きたことなんだ。聞いてほしい。
あれは、まだ寒さの残る春先の午後だった。
その日、会社で腹の立つことがあった。いや、腹が立つなんて言葉じゃ足りないな。人を馬鹿にしたような言い方で、上司に散々やられてさ。
仕事のやり方だって間違ってないのに、ただ機嫌が悪いって理由だけで八つ当たりされて、挙げ句、周りには僕が悪いみたいな空気を作られた。
そういう人間、いるだろう?
家に帰ってもイライラで何もできなくて、とりあえず気を紛らわそうと、テーブルの上の適当な紙で鶴を折った。
意味なんかない。何か他のことに集中すればちょっとは気分がマシになるんじゃないかって思っただけだ。
「……あいつが、明日ひどい目に遭えばいいのに」
思い返せばこれが間違っていたのだ。
よく平和や病気の回復を願って鶴を折ったりするのは、鶴を折るという行為が願いを叶える呪術のようなものだったのかもしれない。
とにかくそのとき僕は呪詛の言葉を吐きながら鶴を折っていた。ストレスで胸が焼けるようだったから。まさかあんなことになるとは……。
完成した折り鶴を机に置くと、紙の折り目が一瞬ぬめっと動いたように見えた。
なんか変だな――そう思った直後だった。
「……ひとつだけ願いを叶えてやろう」
折り鶴が喋ったんだよ。僕は思わず椅子ごと後ろにひっくり返った。折り鶴は続けた。
「ただしネガティブな願いに限る」
声は紙が擦れるようでいて、まるで深い井戸の底から響くようでもあった。
「願いって……普通は世界平和とか前向きなものを叶えるんじゃ……?」
そう返すと、折り鶴は羽をゆっくり震わせた。
「人は闇を抱えている。その闇こそ、もっとも強い願いとなる。我はそれを形にする存在だ」
その言葉を聞いた途端、さっきまで胸につかえていた黒い感情が、じわっと膨れ上がった。
(あの上司、明日ひどい目に遭えばいい)
(いや、今日でもいい)
(できれば二度と偉そうな顔ができないほど……)
その瞬間だ。
「ふむ、それでいいのだな?」
折り鶴の目なんてどこにもないのに、心の奥をじっと覗かれたような気がした。
「待ってくれ、まだ何も言ってな……」
「心が願えばそれでよい」
部屋の空気が急に重くなった。表現しがたい強い圧が押し寄せ、僕は呼吸さえ苦しくなった。
折り鶴はゆっくりと羽を広げた。
「願いは受理された。あとは結果が形となるのみ」
「えっと、これってもしかして……」
折り鶴は淡々と言う。
「人の心の黒い願いは無数の形を取る。転ぶかもしれぬ。失うかもしれぬ。消えるかもしれぬ。世界は常に闇を受け入れる。お前が望む望まぬに関わらず、これは必ず形になる」
その語り口は妙に落ち着いていて、逆に底の知れない恐ろしさがあった。もしかして、僕はとんでもないことをしてしまったのではないか。
それから折り鶴は、さらに奇妙なことを口にした。
「これまでも、多くの者の願いを叶えてきた。世に不可解な出来事と記録されたもののいくつかは――ただ誰かが我に願っただけのこと」
僕は背筋が凍った。
ニュース番組でたまに流れてくる原因不明という言葉、説明のつかない失踪、あまりに偶然が重なりすぎた事故、いつまでも犯人の見つからない殺人事件……。
折り鶴は具体的なことは言わないが、そういうものの中に誰かの願いが紛れていると暗に言っているのではないか。
「お前の願いも、そのひとつとなるだろう」
折り鶴がそう言った瞬間、僕は反射的にテーブルを叩いて叫んだ。
「待ってくれ! 取り消してくれ! 本気じゃなかったんだ、あんな願い!」
折り鶴の羽が止まった。
「取り消す理由は?」
「たしかにムカついたよ。でも……でもさ、僕はただ感情に任せて言っただけで……本気で誰かを不幸にしたかったわけじゃない」
折り鶴は静かに問う。
「人は皆そう言う。だが願いは心の深いところで結晶になる。お前は本当に、望まぬと言い切れるのか?」
僕は震える声で答えた。
「別にいい人ぶってるわけじゃないんだ。自分の願いで誰かが大怪我したり、死んだりして、まともでいられる自信はない」
折り鶴はしばらく沈黙し――やがて羽を閉じた。
「……よかろう。この願いは形にならぬ。無効とする。だが覚えておけ。心が願えば形になると」
空気が一気に軽くなり、僕は机に突っ伏して大きく息を吐いた。
折り鶴はそのまま折り目をほどいていくように、ゆっくりとただの紙へ戻り、何の気配も残さず静かになった。
まるで最初から何もなかったかのように。
だが、折り鶴の悪魔が存在したことは確かだ。そして今もどこかで、誰かが軽い気持ちで折り鶴を作り、その闇に囁かれているかもしれない。
あれから、僕は折り鶴を折っていない。何かを願いながら鶴を折ることの危険性を知ってしまったからだ。
君も折り鶴を折るときは気をつけた方がいい。誰かが君の暗い願いを聞き入れてしまうかもしれないからだ。


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