#535 ビジネスホテル奇譚

ちいさな物語

出張で地方都市のビジネスホテルに泊まった夜のことだ。

エレベーターを降りると、薄暗い廊下の奥に402号室があった。

――部屋の番号が不吉すぎる。4階の2号室なんて、怪談に出てきそうな部屋番号ではないか。

そんなことを考えていたからだろうか、部屋に入ると妙な違和感があった。空気がひんやり、そしてじっとりしていた。薄ら寒い部屋なのだ。

なんなんだこれ。空調がおかしいのかな。

とりあえず荷物を置いてカーテンを開けると、そこには夜景……ではなく、見知らぬ中年男性の背中がぴったり窓にくっついていた。

「え?」

一度カーテンを閉めて一呼吸。もう一度カーテンを開けると、誰もいない。

窓には僕の顔だけが映っている……と思ったら、その横に小さな「ありがとう」の文字が指で書かれていた。

ありがとう? なんでお礼?

びっくりはしたが、怪談という感じはしない。意味がわからないので気持ち悪いだけだ。

気を取り直してシャワーを浴びようと浴室に入ると、鏡の曇りに文字が浮かんでいた。

「来るな」

これはちょっと怪談っぽいけど……。

僕はトイレットペーパーを千切ると、鏡の文字を拭き取った。そもそもいきなり鏡が曇っているなんて、湿気がひどすぎないか?

シャワーを浴びて部屋に戻ると、空気の温度はさらに下がっていた。湯冷めするじゃないか。文句を言おうとフロントへ電話をかけた。

するとフロントの男性が落ち着いた声で答えた。

「ああ、402号室ですね。はい、よく温度が狂ってしまうんです。よくあるんですよ」

飄々としている。この部屋の仕様なのか?

「この部屋、幽霊とか出るんじゃないの? さっき窓に知らないおじさんが――」

「あー、はいはい。それは幽霊ではございません。いうなれば――精霊」

精霊? ビジネスホテルに?

「ご安心ください。危害は加えません。ただし、勝手に洋服ダンスの中身を並べ替える癖がありまして……」

電話を切って振り向いた瞬間、クローゼットの扉がガタガタ揺れた。

開けると、シャツやスーツが謎の基準で並び替えられ、さらにハンガーの一つが左右に揺れながら小声で言った。

「半袖は……まだ……はやい……」

ハンガーの分際でしゃべるな。余計なお世話だ。

やはり怖いというより、意味不明で気持ち悪い。

不安なままベッドに横たわると、枕の中からカサカサ音がした。何かが入っている。

恐る恐る開けてみると、手紙が一通出てきた。

「いつも泊まりに来てくれてありがとう。また来てくれてうれしいよ。402号室より」

部屋そのものから手紙が届いた。「いつも」でも「また」でもなく、初めて来たのだが。部屋は人間の個体識別ができないのかもしれない。

そう思った瞬間、天井からひょこっと顔だけの幽霊がのぞいた。幼い女の子のようだが、顔しかないので生首に見える。

「こんばんは。寝返りをうつと季節が変わるよ」

幽霊はニコニコしながら天井に戻っていった。見なかったことにしよう。疲れていたし、これ以上起きていてもろくなことはない。

そして気づくと朝だった。

部屋は暖かく、きちんと空調が効いていた。少し乾燥しているのはビジネスホテルによくある現象だ。要するに普通の部屋になっていた。

全部夢だったのか? と思いきや、ベッドサイドに見覚えのない木の葉が一枚落ちていた。きれいに色づいた紅葉の葉だった。今は真冬だぞ?

寝返りを打ってしまって一瞬秋になったのかな……。

それを裏付けるように、洗面所のコップに手折ったたんぽぽが生けてあった。

フロントでチェックアウトしようとすると、受付の人がにっこり笑って言った。

「ご利用ありがとうございました。昨夜はよく眠れましたか?」

「いや、あの……402号室ってちょっと縁起が悪い部屋番号だし、やっぱり、その……いろいろあって面倒だったんですけど」

頭のおかしい人だと思われるのも承知で言わずにはいられなかった。すると受付の人は首をかしげる。

「402号室? お客様、昨日は202号室にお泊まりですよ?」

「え? でも鍵は402でしたけど……」

もらったカードキーには、防犯上なのか部屋番号は記載されていなかった。

「402号室は十年以上前から使われておりません。やはり縁起が悪いとお客様から不評で――今は物置になっています」

背筋に冷たい汗が流れた。

あの部屋――いや、あれは本当に部屋だったのだろうか。帰り道、カバンを開けると、きれいな紅葉とどんぐりが入っていた。

なんだったんだ、結局……。

ビジネスホテルの怪談は、今日もどこかで季節を狂わせながら、誰かを迎えているのかもしれない。

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