#536 地球引越し計画

SF

地球を丸ごと引越す、と博士が言い出した。

朝のニュース番組で突然その一言が流れた瞬間、コメンテーターは誰も口を開かなかった。台本になかったんだろう。しんと静まり返っている。司会者がなんとか場をつなごうとして拍手した。

「すごいですねっ!」

発言した博士の名前はドクター万年寺。ここのドクターは医者ではなく、博士号保持者に対する敬称のほうのドクターである。日本では万年寺教授の方が通りやすい。

大量のエスプレッソを飲むことで有名で、偏屈な科学者だ。今日の会見でも、デミタスカップを片手に世界地図を広げていた。

「磁場、温暖化、スペースデブリの増加など、地球の抱える問題がいよいよ深刻になりつつある。よって地球は引越す。以上だ」

あまりにも雑な説明……。素人にもわかるように言って欲しい。

だが万年寺教授はにこやかに続けた。

「安心したまえ。我が発明した『地球底面ワープエンジン』を取り付ければ、地球ごとワープできる。これまでの生活に支障はない」

当たり前のように言うが、地球に底面なんてあったのか。人類はこの日まで、地球の底が存在することすら知らなかった。

「便宜上底面と呼んでいるだけで、くれぐれも地球の底を探したりしないように」

今、心を読まれたような……。

万年寺教授はリモコンのボタンを押し、モニターを映した。南極の辺りに銀色のプレート状の光が貼り付いている画像が映っていた。

銀皿に乗った地球グミみたいだな。

「知識のない方々にはグミキャンディか何かのように見えるかもしれないが、これは引越しの準備を終えた地球の姿である」

また心を読まれたような……。

コメンテーターたちが困惑して質問する。

「万年寺教授、引越すとおっしゃいましたが……どこへ?」

「ふふん、それはもちろん――」

万年寺教授は大きくホワイトボードに書いた。

『ちょっとだけ隣』

わざわざ書くようなことでもないような。宇宙でちょっとだけ隣というとどれくらいの距離になるのだろう。

「具体的にどれくらい移動が必要なのですか?」という質問に対し、万年寺教授は胸を張ってこう言った。

「宇宙規模でいえば移動していないも同然。まぁ、なんとなく近いと思ってもらえればいいだろう」

「なんとなく」の距離で地球を動かすなよ。もちろん、いろいろ難しい計算があって素人にはわからないのだろうが。

この教授、圧倒的に素人への説明が下手だ。

しかし、世界はなぜかこの計画に反対しなかった。むしろ多くの人々が期待し始めた。

「新天地で運気が変わるかも」

「地球が丸ごと動けば景色って変わるの?」

「なんかインスタ映えしそう」

みんな軽すぎる。本当に安全なのかも心配だ。

それでも万年寺教授は準備を続けた。

僕は科学雑誌のレポーターとして密着取材をすることになった。

万年寺教授の研究所には、巨大なスイッチ、意味の分からないレバー、巨大なハンドスピナー型の謎装置があり、どれも「押すな」とか「たぶん危険」とか、「触ると死ぬ」など怖いメモが貼られていた。

万年寺教授は言う。

「地球引越しは、まず地球の座標を軽くずらすところから始める」

「座標ってずらせるんですか?」

「簡単ではないができる」

ものすごい自信だ。素人は「できるらしい」とだけ理解すればいいか。

「ただし、移動は少しずつだ。危険だからな」

万年寺教授は巨大スイッチに手をかけた。

「では肩慣らしといこうか」

万年寺教授がスイッチを押した瞬間――何も起こらなかった。

「今どうなったんです?」

「地球が2ミリだけ右にワープした」と万年寺教授が言った。

「それは――どうなります?」

「何も起こらんよ」

万年寺教授は満足げだった。

「いい兆しだ。大きく動かすと、大変なことになるのは想像できるだろう。こうやって少しずつ動かすのだ」

「な、なるほど……」

それは確かに正しいのかもしれないが、今世界中が期待している引越しとは違うような気がする。

翌週、いよいよ地球ワープの公開の日が来た。先日は2ミリ動かしたが、今日はどれくらい動かすのだろうか。

万年寺教授がスイッチを押す瞬間、僕は世界中の人々と同じく息を飲んだ。

「さあ――地球よ、出発だ!」

万年寺教授がスイッチを押す。

ゴゴゴゴゴゴゴッ!!

地鳴りが響く。

ワープ装置から閃光が走り――そして静かになった。

万年寺教授が叫ぶ。

「成功だ!!」

やったのか!? 地球は引越したのか!?

僕は恐る恐る外を見る。

しかし景色はいつもと変わらなかった。

太陽も同じ位置、風もいつも通り、空気圧も変化なし。

万年寺教授に尋ねた。

「……本当に移動したんですか?」

万年寺教授は胸を張った。

「もちろん! たしかに移動した!」

「どれくらい?」

万年寺教授は指で輪っかを作り、その輪の中に少しだけ隙間を作って言った。

「このくらい」

ちょっと。ほんのちょっと。5ミリよりは大きいか?

地球は、宇宙のどこかへダイナミックにワープしたのではなく、宇宙空間の中を、ススッと数ミリスライドしただけだった。

世界中が沈黙した。

誰かがつぶやいた。

「……これ、意味あった?」

万年寺教授は誇らしげに言った。

「あるとも! こうやって毎年すこーしずつ移動して引越しを完了させる。今年は引越し元年として、後世に語り継がれることになるだろう」

世界はさらに沈黙した。

でも不思議なことが起こった。

翌日、なぜかみんな少しだけ明るい気分になっていた。

「なんか新鮮な気持ちになった気がする」

「空気が変わった」

「地球もちょっと動いたしね。気持ち的に」

万年寺教授は最後にこう言った。

「宇宙の中で少し動いても地球は地球であり続ける。つまり、地球はどこに行っても地球なのだよ!」

深いような、深くないような……。

僕は聞いてみた。

「来年はどれくらい動かすつもりですか?」

万年寺教授はエスプレッソを飲みながら言った。

「次は……8ミリだ!」

全然進まない。

けれど僕は少しだけワクワクしていた。

地球の大引越し計画は、今日もゆっくり、誰も影響を受けない程度に続いていくのだった。

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