朝、駅前でおじさんが立っていた。
背中に「飴係」と書かれたゼッケンをつけていた。
「おはよう。飴いる?」
差し出された手のひらの上には、緑色の包み紙のありふれた飴玉。だが、妙に気になった。
「……なんの飴ですか?」
「秘密だ」
あやしい。そして意味がわからない。けれど、なんとなく受け取ってしまった。
家に着いてから包みを開けてみると、飴は透明だった。なめても味がしない。でも舌にじわじわと違和感が出てくる。
のどが乾いたので冷蔵庫を開けたら、突然冷蔵庫がしゃべった。
「おかえり」
僕は驚き過ぎてスマホを落とした。冷蔵庫は静かに続けた。
「君、飴なめたね」
「え、なんで知ってるの?」
「知ってるさ。だって私、飴係のおじさんだったから」
僕はゆっくりと冷蔵庫のドアを閉めた。
次の日。通学途中、犬がしゃべった。
「昨日、冷蔵庫と話しただろう」
「え、なんで知ってるの?」
「君も仲間だ」
「だから、なんで?」
犬は神妙な顔で地面に文字を書いた。
『飴の民は、なめることで世界の構造を理解する』
「ちょっと待って。どういうこと?」
「これが日常だ」
その瞬間、信号が青から赤に変わった。犬がしゃべっていても、その異変に誰も気づかない。僕だけが混乱していた。
「どうすればいいの?」
犬はハーネスのポケット(しゃれたハーネスだ)から飴玉を取り出し、渡してきた。
「なめろ」
また同じ透明な飴だ。口に入れると視界がじわりと歪んだ。
気づくと、見知らぬ教室にいた。大学のような階段教室だ。
黒板には「飴会議」と書かれている。教壇には飴細工の先生が立っていた。
透き通っていて美しい。
「今日の議題、飴がなめられすぎ問題について」
クラスメイトも全員、飴細工だった。僕だけ人間。教室中がきらきらと飴色に輝いている。
「なんで俺だけ人なんですか」
「君はまだ第二段階だ」
「段階があるんですか。なんか格闘漫画みたいですね」
チャイムが鳴る。
飴会議が終わり、授業が始まった。教科書にはこう書かれていた。
【第一章:飴の歴史】
・飴はなめられることで存在を証明する。
・なめられない飴は虚無である。
「質問!」
僕は手を挙げた。
「飴がなめられなかったらどうなるんですか?」
先生(飴)はため息をついた。
「……消滅する」
その瞬間、クラスの隅の生徒がスッと消えた。
「彼はなめられなかったんだ」
僕は冷や汗をかいた。やはり僕以外の生徒は全員飴細工だったのか。しかもなめられないと消える。恐ろしい。
あれ? 「飴がなめられすぎ問題」とか言ってなかったか。適度になめられるのが正解ということか?
昼休み、購買に行くとパンが全部飴になっていた。
「メロンパン味の飴」「カレーパン味の飴」「飴味の飴」。
「飴味の飴ってなに?」と聞くと、購買のおばちゃんが真顔で言った。
「そりゃ、飴の味さ」
怖かった。
帰り道、また駅前にあのおじさんが立っていた。
「調子はどうだい?」
「飴の世界、意味がわかりません」
「そりゃそうだ。飴だからね」
「どういうこと?」
おじさんは飴を取り出して笑った。
「君、もう気づいてるはずだよ」
「なにを?」
「飴の中に、飴があるってことに」
なにかぐるぐると回っているような感覚に陥る。飴味の飴といい、生理的な恐怖を感じる。
この世界の理屈が理解できなかった。
――そのとき、もらった飴が震え始めた。そして割れた。中から、ちいさな僕が出てくる。そのミニチュアの僕が言った。
「君、なめられてるよ」
「誰に?」
「上の世界の誰かに決まってるじゃないか」
「上の……世界?」
僕の視界がぐにゃりと曲がり、見上げると、巨大な舌が空から降ってきた。
世界がベロンと音を立てた。空が光る。
おじさんが叫んだ。
「なめすぎると世界が溶ける!」
地面がキャンディ色に溶けていく。犬が走りながら叫んだ。
「逃げろ! なめられるぞ!」
僕は全力で走った。
だが、足元が水飴になってうまく進めない。
視界の端で、建物がカラフルにねじれ、人も家も、みんな一つの巨大なキャンディに吸いこまれていった。
最後に聞こえたのは、おじさんの声。
「飴をなめる者は、飴に返る……」
そして世界がぱきんと音を立てて割れた。
――目を覚ますと、駅前に立っていた。おじさんも犬もいない。
手に飴玉をひとつ握り込んでいた。包み紙に小さくこう書いてある。
【第三段階へ ようこそ】
僕はそっと飴を口に入れた。味はしなかった。
帰って冷蔵庫を開けると、また声がした。
「おかえり」
「これ、何段階まであるの?」
冷蔵庫は黙ったまま勝手に扉を閉じた。



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