#553 甘い行列

ちいさな物語

バレンタインを目前にしたある日、俺は百貨店の前にいた。

目的は単純で、テレビの特番で取り上げられているような、凝ったバレンタインチョコレートをちょっと試しに買ってみようくらいのものだった。

値段も高く、行列に並ぶ必要があることは事前に確認済みだ。特別甘いものが大好きというわけではないが、何でも試してみたい性分なのだ。

店の入口から続く行列を見て、少したじろいだが、テレビで報道されていたように、長くても1時間くらいで買えるはずだ。

早速列に並んで、イヤホンを耳にさした。音楽を聞いたり、ドラマや動画を見ていたらあっという間だろう。

前後は同じような人ばかりだった。

スーツ姿の男性、紙袋を抱えておしゃべりに夢中になる学生たち、熱心にスマホをいじっている女性。

誰もが「ちょっと買って帰るだけ」の顔をしている。

最初の違和感は、列が屋上へ向かったときだった。

エスカレーターを上がり、さらに階段を使い、屋上の遊園地跡に出た。寒風が吹き、観覧車は止まったまま。

「こちらでーす」

スタッフが普通の声で誘導している。

まあ、売り場を大きく離れて迂回させるのが、このイベント動線なのだろう。人が多いのだから仕方ない、と自分を納得させた。少し寒いが列は再び度建物の中へ向かっている。ここは我慢だ。

そして列は、なぜか地下へ向かっていた。

屋上から非常階段を降り、普段は一般の立ち入りが禁止されている搬入口を通り、地下3階の倉庫のような場所に入る。

チョコレートがある気配がまったくない。代わりに、段ボールと埃っぽい匂いがする。

誰も文句を言わない。とりあえず列は、進んでいるからだ。ここで列を抜けたらこれまでの苦労が無駄になってしまう気がした。

しばらくすると、列は屋外に出る。百貨店の裏、路地、隣のビルの非常口。いつのまにか日が暮れていた。

「これ、本当に百貨店の行列?」

誰かが呟いたが、答えは返ってこない。やがて列は再び建物に入った。そこは、明らかに客用の空間ではなかった。

低い天井、曲がりくねった廊下、意味のわからない扉。奥へ奥へと進んでいく。スマホは圏外になり、行列は異様な雰囲気に包まれていた。

いつの間にか、並ぶという行為そのものが目的になっている。

深夜、行列の前の方からスタッフが現れる。

「みなさま、お疲れさまです」

そう言って、アンパンと牛乳を配っている。空腹だったのでありがたかった。

誰も「チョコレートは?」と聞かなかった。

列は進むのをやめ、静止した。みんな、当たり前のようにその場にしゃがみ込み静かになった。自分も眠ったのか、意識のない時間が過ぎていった。

目が覚めると、朝だった。蛍光灯が点き、列が動き出す。

人数は、減っていない。少なくとも自分の周辺で、夜のうちに抜けた人はいないようだった。不思議だと思ったが、何より自分もここに残っているではないか。

「はい、みなさま、動きますよー」

スタッフが言う。進んだ先には、また知らない通路がぐねぐねと続いていた。

百貨店の奥には、まだ奥があった。迷宮のように。もはや百貨店の敷地内なのかもあやしい。

そんな中、チョコレートの匂いが、かすかに漂ってきた気がした。みんな少しだけ笑顔になった。

軽い気持ちで始めた列の終点が、どこなのかはまだ分からない。

ただ一つ確かなのは、ここまで来たのだから、列を抜けるというわけにはいかないという強い信念だった。

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