#557 ワン・タク

ちいさな物語

ある朝、駅前のロータリーに「本日より犬が運行します」という手書きの立て看板が立っていた。

胡散臭い。誰かのいたずらだろうか。

そう思って笑った俺の目の前を、馬くらいある巨大な犬が、すました顔で横切っていった。

首輪には青いプレートで「空犬」と書かれている。「空車」ということか?

背中にはナンバープレートまでついていた。

犬はロータリーの端でぴたりと止まり、俺の目を見てから、前脚を少し折って「乗れ」とでも言うように身を低くした。

「え、マジで?」と俺が言うと、近くの誘導員らしいおばさんが「はいはい、行き先、犬に言って」と平然と促した。

「犬に?」と聞き返す間に、犬はにっこりしたように口角を上げ、尻尾を二回だけ振った。

歩いていくつもりだったが、こうなったら乗車……いや、乗犬するしかない。

俺は半信半疑で犬の背中にまたがり、「市役所前まで」と言ってみた。

犬は「了解」とでも言うように一度だけ鼻を鳴らした。

俺が「シートベルト……は」と言いかけると、犬は振り返って首輪の横から紐をくわえて引っ張り出した。

紐の先は俺の手首に巻けるようになっていて、手綱みたいに握れば落ちない仕組みだった。やや心許ないが、安定はする。

俺がちゃんと紐を握ったのを確認して、犬は信号のタイミングをはかると、すっと車道へ入った。

走り方は妙に品がよくて、段差では速度を落とし、横断歩道では必ず左右を確認する。思っていたよりも危険を感じず、快適だった。

市役所前に着くと犬はエントランスの庇の下に俺を寄せ、前脚で地面を二回叩いて「到着」を知らせた。

料金はどうしたらいいのかと、きょろきょろしていたら、首輪の後ろに電子決済が可能なモニターがついているのを見つけた。取り扱っている決済方法も多い。クレジットカードも使えるみたいだった。

スマホを使って決済を済ませると、犬は軽く会釈し、耳を少し伏せて「またどうぞ」とでも言うように口を開いた。笑顔に見える犬独特の仕草だ。――かわいい、かもしれない。

好印象を持ったのは俺だけではなかったようで、翌日から街の人々は、ロータリーに並び、ひっきりなしに巨大な犬に「乗犬」していった。

不思議なのは、犬が客の気分まで読むことだった。

急いでいる人には信号の変わり目を攻めすぎない範囲で最短を走り、落ち込んでいる人には景色のよい公園の木陰を少し遠回りしてくれる(経験した人に聞くと遠回り分の料金は請求されなかったそうだ)。

「接客上手すぎだろ」と俺が感心すると、誘導のおばさんは「犬は昔から、人の気持ちを読むのが上手いのよ」と言った。

ただ一つ、致命的な欠点があった。

屋根がない。

ある日の夕方、天気予報が外れて土砂降りになってしまったのだが、なぜか習慣でワン・タクの列へ並んでしまった。

犬はいつも通り礼儀正しくしゃがんでくれたが、背中に乗った瞬間、濡れた毛でスーツが濡れてしまった。よく考えれば当たり前なのだが。もちろんその後も、雨粒が遠慮なく全身を打つ。

「これ、びしょ濡れじゃん」と俺が叫ぶと、犬は申し訳なさそうに耳を伏せ、それでも走る速度だけは少し落としてくれた。逆にこんな日に乗ってしまって申し訳なくなる。

俺は思わず犬の首に腕を回し、「ごめん、文句を言って。大丈夫だから」と言った。

赤信号で犬は一度だけ振り返り、濡れた前髪の俺の顔を見て、鼻先で俺の胸元をちょんと押した。

濡れてもいいやと腹をくくった瞬間から、吹きつける雨と風が心地よく感じられてきた。考えたら、雨に向かって高速で突っ込んでいくことなんてそうそうない。

家の前に着いた頃には子供の頃以来のびしょ濡れ状態だった。

でも犬は最後まで玄関の庇の下に俺を寄せ、前脚を二回叩いてから、雨の中へ躊躇なく戻っていった。

翌朝、ロータリーには新しい看板に貼り紙が貼り付けられていた。

「雨の日用にポンチョと貴重品入れになる防水ケース完備しております」

もしかして昨日の犬が、何かしらの手段で客が濡れないようにと、かけ合ったのだろうか。

なんとなく微笑ましいような気がして、俺は今日もロータリーに並んでいる。

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