#559 時刻表の王子様

ちいさな物語

私は通勤電車の同じ車両で、半年くらいずっと気になっていた人を眺めていた。

背が高くて、コートをきれいに着こなしていて、顔がやたら整っている。

スマホじゃなくて、本を読んでいるところもポイントが高い。ページをめくる指まで絵になる。

そんな人が毎朝いるだけで、人の多い通勤電車が少しだけ楽しくなった。

でも、話しかける理由がない。だから私は、バレンタインを口実にすることにしたんだ。

コンビニで小さなチョコを準備しておいた。もちろん、もっと気合いをいれてデパートで買うこともできたが、さすがに引かれるかなと考えたのだ。

コンビニのちょっとだけ高級なラインのチョコ、これくらいなら気軽に受け取ってもらえるはず。

当日、いつもの位置に彼がいて、いつものように本を開いていた。

ドアが閉まる音がして、私は逃げ道がなくなった気がして胃がきゅっとなった。今日こそ、絶対に話しかけなくては。

私は息を吸って、声をかけた。

「すみません、毎朝お見かけしてて、今日バレンタインなので良かったらこれ、どうぞ」

彼は顔を上げた。近くで見ても、本当に顔がいい。ただ、目が笑っていなかった。胸の中にさっと影が差すような心地がする。

彼はチョコを見てから、私を見た。やけに機械じみた動きだった。そして、妙に丁寧な口調で言う。

「まもなく、扉が閉まりますので、ご注意ください」

「え?」

一瞬、意味がわからなかった。

車内アナウンスに似ている、というレベルじゃない。抑揚の位置まで、それだった。一瞬、車内放送でも流れたのかと思った。

私が「え、あの、チョコ……ご迷惑ですか?」と言うと、彼は続けた。

「駆け込み乗車は大変危険ですので、おやめください」

ちょうどこのタイミングで駆けこんで来た人が「すみません」と言ってから、不思議そうな顔をして彼を見た。

なんかこの人……変な人かもしれない。

「アナウンスの真似、上手ですね」

彼は真顔のまま頷いた。

「真似ではありません。私は、遅延を嫌います。事実、駆け込み乗車は大変危険です」

私は受け取ってもらえないチョコの重さに膝をつきたくなっていた。もちろん比喩的な意味で。

「そのチョコは、いつ渡す予定でしたか」

「え、今ですけど」と答えると、彼は首を少し傾けた。

「予定外です。予定外の行為は、遅延の原因になります」

私は「あ、じゃあ、いいです」と言いかけた――そのとき、彼は鞄から小さなメモ帳を出して、カチカチとペンを動かした。

「受領はしません。ただし、持ち込みは記録します」

「本日、七時三十二分、車両三号、チョコレート、未受領」

この期に及んで低くて良い声だと思う――が、何のつもりなのかわからない。

私は思わず「それは何の記録ですか」と聞いてしまった。

彼はさらっと答えた。

「個人遅延報告書です」

「個人遅延報告書……?」

「あなたは今、私の予定表に割り込みました。割り込みは、次の乗客にも連鎖します」

なんかとても怒られているような気がする。

もう帰りたい。今さらだが、周りの目も気になってきた。でも降りる駅はまだ少し先だ。私はできるだけ穏やかに言った。

「すみません、ご迷惑でしたね」

彼は迷惑とは言わず、代わりに妙に優しい声を出した。

「お忘れ物にご注意ください」

チョコは持って帰れという意味ね。

私は耐えきれず、話題を変えた。せめて降りる駅までは持ち堪えなくては。

「あの、毎日何を読んでいるんですか?」

彼は本を掲げた。

表紙には大きく『全国鉄道ダイヤ改正史』と書いてあった。

なるほど、そっちの人か。鉄道オタクにもいろんな種類の人がいるものなんだな。

顔はめちゃくちゃ好みなのに、すでにお付き合いできる気がしなかった。

彼は少しだけ表情を緩めた。

「あなたも、時刻表は好きですか」

「いえ、普通です。というか、電車が定時に来ればそれでいいです」と答えると、彼は残念そうに言った。

「普通は、危険です。普通は、遅れます」

それは普通列車の話? 会話が全部、電車に収束されていく。

私はチョコをバッグに戻しながら決めた。もう二度とこの人に近づかない。

そのとき、急に電車が小さく揺れてから止まった。トラブルのため停車するという内容のアナウンスが流れる。あちこちでため息が聞こえた。

彼は怒るかと思ったが、目を閉じて、胸の前で手を合わせた。

「遅延を受け入れます」

そう呟いてから、私に向き直った。

「したがって、あなたの予定外も受け入れざるを得なくなりました」

――と、手のひらをこちらに向ける。どういう理屈なのかまったくわからない。変な人なりに変な理屈があるのだろう。

もう関わりたくないと思っていたのに、私はバッグからチョコを出してその手に乗せてしまった。

「ただし、次回は予告してください」

「ああ、はい。すみません」と、流されるように謝罪してしまった。

いや、待って。次回があるの? 今さらだけど、ちょっと嫌かも。

その後、電車は無事にいつも利用している駅に到着した。私はその瞬間、深く頭を下げた。

「今日は失礼しました」

彼は最後までアナウンスの声で言った。

「ご利用ありがとうございました」

ホームに降りた私は、何より先に笑いが込み上げてきた。あんな変な人、初めてだ。

恋の始まりを想像してドキドキしていたのに、今はもう無理無理って感じで、自分が現金すぎて笑えてきちゃう。顔だけはいいのにもったいないな。

「あ!」

そこで私はハッとした。チョコの包みに自分の連絡先のメモをはさんでいたんだった。

連絡が来たらどうしたらいいんだろう。正直、すごく面倒くさいかも。

そしてまた笑いが込み上げてきた。

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