#566 叶えるお守り

ちいさな物語

駅から坂を十分ほど上ると、杉木立に囲まれた小さな神社が現れた。

鳥居の横の掲示板には、地元の祭りの案内と「清らかな心」という墨書が貼られている。

いかにも地域に密着した小さな神社という感じだ。僕の聞いた噂は本当なのだろうか。

鳥居をくぐって進むと、小窓のついた社務所があり、そこに「叶守かなえまもり授与所」と墨で書かれていた。

僕が聞いた噂はこうだ。

あそこのお守りは高確率で願いが叶う。合格祈願、健康祈願、恋愛成就、何でも叶う。

ただし、お守りを授かった人は口をそろえて「叶うのは本当。でも簡単ではない」と言うらしい。

また願いが叶う前にお守りを神社に返してしまう人もいるのだという。

これは一体どういうことなのだろうか。

巫女さんに叶守を授かりたい旨を伝えると、棚の奥から小さな袋を出してくれる。

初穂料は2,000円で、ちょっと高めだなと思った。しかし、白地に金糸で刺繍が施され、なかなかゴージャスな見た目だ。

「願いは一つだけ、強く思ってください。必ず叶います。頑張って」

巫女さんはにこやかに言った。

頑張って?

少しひっかかるものを感じたが、僕の願いは恋愛成就。お守りを握って心の中で強く祈る。

長く片思いしている相手がいて、でもどうしたらいいのか分からないまま、時間だけが過ぎていたからだ。

賽銭箱の前で手を合わせ、帰りの坂道を下りていると、ポケットの中でお守りが動いたように感じた。

一緒にスマホを入れてたっけ、と手を入れるとお守りしか入っていない。

取り出してよく見ると、結び目が、呼吸するみたいに縮んだり膨らんだりしている。

「え? 何、これ?」

次の瞬間、結び目がほどけ、ふわりと淡い光が立ち上った。

小指ほどの大きさの人影が、空中で腕組みをしている。顔は子どもなのに目つきだけが妙に厳しい。

精霊、という言葉がいちばんしっくりきた。和装なのは神社のお守りに入っていたからか?

「強い願いを感知」

精霊は甲高い声で言った。

「確認。願い、恋愛成就。対象、1名。期間、3ヶ月。指導開始」

僕は声も出ないまま立ち尽くした。何が起こったのか、意味がわからない。

精霊は僕の耳元に近づき、鼻をひくひくさせた。

「まず、服」

「臭い。あと、その襟、よれてる。靴、汚れてる。髪、寝ぐせ。減点」

減点?

いきなり採点されている。

「いや、だって、別に知ってる人に会うわけじゃないし。仕事の時はちゃんとして行くよ」

精霊の目がさらに厳しさを帯びる。

「甘い。恋愛は常に清潔感」

精霊はそう言い、僕の肩に着地した。

重さはほとんどないのに、背筋が自然と伸びた。

その日の夜、僕がベッドに倒れ込もうとした瞬間、精霊が枕元で笛みたいな音を鳴らした。

「だめ。今から洗濯」

「え、別に明日でいいだろ」

「だめ。清潔は毎日。恋愛は偶然じゃない。毎日の準備が9割」

僕は渋々ランドリー袋を抱えた。

洗濯機の前でも精霊は腕組みのまま、タイマーの設定を監視し、洗剤や柔軟剤の量にまで口を出した。

「柔軟剤の匂いは嫌がる人もいる。要注意」

翌朝、鏡の前で髪を整えていると、精霊が櫛を奪い取る勢いで言った。

「分け目、逆」

「あなたの顔は右側の方が整って見える。だから右側を強調する髪型にする」

顔の左右を評価される日が来るとは思わなかった。

僕は鏡の前で右を向いたり、左を向いたりしてみる。言われてみれば、右向きの方がちょっとだけイケメンに見えるような気が……いや、気のせいレベルだが。

会社ではさらに厄介だった。

昼休み、僕がコンビニの揚げ物入りの弁当とコーヒーを買おうとすると、肩の上で精霊が小さく咳払いをした。

「脂。肌荒れ。口臭。恋愛の敵。朝以外のカフェイン摂取はあまりオススメしない」

代わりにサラダチキン(プレーン)と、野菜たっぷりサラダ(ノンオイルドレッシング)とペットボトルの白湯を選ばされ、僕はレジへと急かされた。

「時間は大事。コンビニで余計なものを見ない。欲しくなるから。明日から自炊。弁当持参」

「ええ! 面倒なんだけど」

しかも精霊は、恋愛のベースとして、美容や健康に厳しいだけではなかった。

エレベーターで同僚に会ったとき、僕が曖昧に会釈した瞬間、精霊が耳元で囁く。

「目を見て。笑顔0.8秒。挨拶は二音節を上げる。大きすぎる声はだめ。さりげなく、でも機嫌がよさそうな声で。口角は常に少しあげた状態をキープ」

いや、恋愛対象じゃない同僚(男)にそこまでしなくても。

しかし、僕が言われた通りに「おはようございます」と言うと、同僚が少し驚いてから、笑い返し、挨拶してくれた。

あれ? なんかいい感じかも? 僕、すごくいい人みたいじゃん。

週末、精霊は僕を街へ連れ出した。

「服を買う。サイズ、合ってない」

試着室の前で精霊は店員のように的確だった。

色、素材、丈、靴との相性。

僕が似合わないと思っていたジャケットを羽織ると、精霊は即座に頷いた。

「よし。『ちゃんとしてる』が出た」

「ちゃんとしてる、って何だ」

「清潔感、安心感」

さらに、マナー講座まで始まった。

箸の持ち方、メニューの選び方、店員への声のかけ方。

僕が無意識にスマホをテーブルに置くと、精霊がピシリと小さな棒で叩いた。

「目の前の人を最優先、スマホはマナーモードにして鞄の中、時計を見ない」

僕は自分が矯正されていくのを感じた。

それは少しだけ窮屈ではあったものの、自分がどんどん良い方向へ向かっていく実感に心が踊った。

恋愛の基本は、やはり安心して恋愛できる対象になるところから、というわけか。

なんか、やる気がみなぎってきた。

2ヶ月が過ぎたころ、片思いの相手と偶然帰り道が一緒になった。

いつもなら「あ、どうも」で終わる。なぜなら気があると思われると恥ずかしいからだ。今までの僕はことさら興味がないような雰囲気を出してしまっていた。

でもそのとき、精霊が肩の上で静かに息を吸った。

「目標を確認。天気の話」

天気の話? ベタだなぁ。

そう思ったが、「今日はちょっと暖かい1日でしたね」と、他愛ない話を振ると、相手の警戒心が緩んでいくのがわかった。挨拶の延長のような話題、時間がかからない、傷つけられることもない。天気の話は導入にはもってこいのようだ。

精霊が話の方向を耳元で逐一教えてくれるので、安心感があり、落ち着いて話せていた。

そして、僕は驚くほど自然に「このあと、少しお茶でもどうですか」と言えた。

相手は一瞬だけ迷い、そして「いいですね」と答えた。

喫茶店で僕は、精霊に言われた通り、相手の話を遮らず、質問を返し、笑うところでちゃんと笑うことを徹底した。

話題が途切れそうになると、精霊がほんの少し指で僕の耳を引っ張り、次の話題を提案してくれる。

「初めはガツガツしない。15分で切り上げる」

帰り際、相手は「今日は何か雰囲気が違いますね」と言った。

僕は照れて笑った。

その夜、部屋に戻ると精霊はお守りの紐に腰掛け、帳簿のようなものを開いた。

「進捗、良好。だが油断するな」

「お前、結局何者なんだ。自己啓発サロンでも運営してるのか」

僕が冗談混じりに尋ねると、精霊は眉を上げた。

「わたし、叶守かなえまもり

僕はずっと、神様に願えば運や奇跡が願いを叶えてくれるのだと思っていた。

けれど実際は自分の意思で変わらなければ意味がなかったのだ。怠け癖や諦め癖が治らない限り、奇跡が起こったとしてもその1回だけで終わってしまう。

3ヶ月目、相手の方から「今度の休日にちょっと買い物に付き合ってくれませんか?」と誘いが来た。

これは先日お茶をしたときに、弟さんへの誕生日プレゼントを選ぶのに困っているという話題からの続きだった。僕は「なんなら選ぶのを手伝いますよ」と何でもない調子で請け負ったのだ。

画面のメッセージを見ているうちに、目の奥が熱くなった。

その瞬間、肩の上の気配がふっと軽くなる。

精霊が「満願成就」と言って、お守り袋の中に足を突っ込んでいた。

「ちょ、ちょっと、待ってよ。早すぎるでしょ。だってまだ……」

僕が言うと、精霊は振り返った。

「大丈夫。成就。――毎日洗濯。毎日お風呂。毎日筋トレ。靴も磨く。読書。姿勢は崩さない。周りへの気遣い。何よりまず健康第一」

この3ヶ月間の集大成のようなセリフを言い終えると、精霊はお守り袋の中にするりと入って消えてしまった。

要するに、このままいけば恋愛成就確定ってこと? 精霊のお墨付きって解釈でいいのか。

静けさが戻った部屋で、僕は叶守かなえまもりを手のひらに乗せた。

「――ありがとう」

明日、買い物の帰りにお守りを神社に返しに行こう。そのときに、彼女に叶守のことを話して、交際を申し込もう。

絶対にうまくいくような気がしてきた。

そして――願いが叶うお守りは本物だった。噂通り、ちゃんと叶うのだ。でも確かに……簡単ではないことは付け加えておく。

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