#568 失せ物国境検問所

ちいさな物語

その銀のボタンは、単に糸が解けて転がっていったわけではなかった。

糸は不思議としっかり縫い付けてある。ボタンだけが忽然と姿を消していた。

コートの顔ともいえる襟元に輝いていた、あのボタンがなくては意味がない。

私はその日、部屋のすべての家具を動かし、掃除機の紙パックを切り裂いて中身をぶちまけ、昨日歩いた道筋を三往復した。

交番にも届けたが、お巡りさんは「遺失物……ボタンが1つ……ですか」と困った顔をした。

1週間が過ぎ、1ヶ月が経った。私の指先は、そのボタンがついていたコートの空白をなぞるのが癖になっていた。

それは亡くなった祖母が、北欧の小さな骨董品店で見つけてくれたものだ。

精巧な百合の紋章が刻まれた、鈍く光る銀。世に2つとない品であるらしい。何よりも祖母との思い出が詰まっている大事なものだ。

「もう、どこにもないんだ」

そう確信した瞬間、私のスマートフォンの画面に、見覚えのない通知が表示された。

【貴殿の所有物は、現在『失せ物の国』のイミグレーションにて入国審査を待機中です】

リンクをタップすると、簡素なグレーの画面に「問い合わせ」というボタンだけが表示された。

私は迷わずそこを押し、表示された番号に電話をかけた。こんな世の中なのに、よく考えたら危険なことだったと思う。

三回のコールのあと、ひどく静かな声の男が言った。

「はい、失せ物の国、入国管理局でございます。捜索受理番号をどうぞ」

受理番号というものがわからなかった私は、祖母のボタンの特徴を伝えた。男は受話器の向こうで、パラパラと紙をめくるような音を立てている。

「ああ、ありますよ。銀製、直径十五ミリ、百合の紋章。現在、彼は第三待機室で入国許可を待っていますよ」

「入国許可? それはどういうことですか。それは私の私物です。返してください」

男は、深い溜息をついた。

「大きな勘違いをされていますね。我々の国へ届くのは、単に置き忘れたり、落としたりしたような『行方不明』の品ではありません。持ち主がすべてを尽くし、可能性を網羅し、それでも見つからなかった『本当の失せ物』だけが、この国への亡命資格を得るのです」

「亡命?」

「ええ。物が意志を持つという話を聞いたことくらいはあるでしょう。特に長く大切にされたものほど。その失せ物はあなたのもとを離れ、この国で『ただの銀』として生きることを望んでいます。愛着という名の鎖が、彼らにとっての檻になることもあるのですよ」

胸の奥がチクリと痛んだ。私はあのボタンを大切にしていた。大切にしていたからこそ、無くなったことがこんなに苦しいのに。

「戻るかどうかは、失せ物自身が判断します。こちらから本人に繋ぎますので、説得なさってください。ただし、通信時間は32秒。それがこの世界のルールです」

繋ぐって……どういうことだ?
 
プツリという音とともに、静寂が訪れた。そして、耳元で小さな、金属が触れ合うような高い音が響いた。

「……あの、聞こえますか?」

私は戸惑いながら声をあげた。確かに向こう側に何かの気配がある。

「お願いだ、戻ってきてほしい。ボタンが……いや、きみがいないと、あのコートは意味がない。祖母との思い出も、君がいなくなったら消えてしまう気がするんだ」

返ってきたのは、小さな溜息のような振動だった。

「……僕は、もう疲れたんだ」

確かに、そんな風に聞こえた。ボタンがしゃべるはずはないのだが、間違いなくあのボタンだと私は感じた。理由はよくわからない。

「きみの思い出を守る役目は、もう十分に果たしたと思う。僕はね、骨董品として100年以上、何人もの人の心に寄り添って来たんだ。だからもう、誰の記憶にも属さない、ただの金属の塊になりたいんだ」

「そんな……」

「さようなら。コートの穴は、新しいボタンで埋めてよ。それは僕じゃないけれど、新しいきみの物語になるはずだ」

プツ、という無機質な音とともに通信が切れた。

画面には【申請却下:失せ物は永住権を選択しました】という冷酷な文字が浮かんでいた。
 
それ以来、私のコートの左胸には、似たような、けれど全く違う市販のボタンが縫い付けられている。

時折、街を歩いていると、ふとした瞬間に視線を感じることがある。

道端の側溝の奥、あるいは自動販売機の裏側。そこには、誰かが必死に探し、ついには諦めた「本当の失せ物」たちが潜んでいるのかもしれない。

彼らは、私たちの愛情や執着という重力から逃げ出し、あの霧の向こうにある国で、ただの物として呼吸しているのだ。

最近、お気に入りの万年筆のインクが出にくくなっている。私はそれを修理に出そうとして、ふと手を止めた。

もし、このペンも「亡命」を考えているのだとしたら。

私はそっとペンを机に置き、まるで機嫌を伺うように、その滑らかなボディを撫でた。

次は、何が私の元を去るのだろう。

失せ物の国のイミグレーションは、今日もきっと、自由を求める物たちで賑わっているに違いない。

「失せ物の国」からの連絡は、いつも唐突に、私たちの喪失という形をして届くのだ。

次は、あなたのポケットの中の大切な何かが、その権利を主張し始めるかもしれない。

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