その銀のボタンは、単に糸が解けて転がっていったわけではなかった。
糸は不思議としっかり縫い付けてある。ボタンだけが忽然と姿を消していた。
コートの顔ともいえる襟元に輝いていた、あのボタンがなくては意味がない。
私はその日、部屋のすべての家具を動かし、掃除機の紙パックを切り裂いて中身をぶちまけ、昨日歩いた道筋を三往復した。
交番にも届けたが、お巡りさんは「遺失物……ボタンが1つ……ですか」と困った顔をした。
1週間が過ぎ、1ヶ月が経った。私の指先は、そのボタンがついていたコートの空白をなぞるのが癖になっていた。
それは亡くなった祖母が、北欧の小さな骨董品店で見つけてくれたものだ。
精巧な百合の紋章が刻まれた、鈍く光る銀。世に2つとない品であるらしい。何よりも祖母との思い出が詰まっている大事なものだ。
「もう、どこにもないんだ」
そう確信した瞬間、私のスマートフォンの画面に、見覚えのない通知が表示された。
【貴殿の所有物は、現在『失せ物の国』のイミグレーションにて入国審査を待機中です】
リンクをタップすると、簡素なグレーの画面に「問い合わせ」というボタンだけが表示された。
私は迷わずそこを押し、表示された番号に電話をかけた。こんな世の中なのに、よく考えたら危険なことだったと思う。
三回のコールのあと、ひどく静かな声の男が言った。
「はい、失せ物の国、入国管理局でございます。捜索受理番号をどうぞ」
受理番号というものがわからなかった私は、祖母のボタンの特徴を伝えた。男は受話器の向こうで、パラパラと紙をめくるような音を立てている。
「ああ、ありますよ。銀製、直径十五ミリ、百合の紋章。現在、彼は第三待機室で入国許可を待っていますよ」
「入国許可? それはどういうことですか。それは私の私物です。返してください」
男は、深い溜息をついた。
「大きな勘違いをされていますね。我々の国へ届くのは、単に置き忘れたり、落としたりしたような『行方不明』の品ではありません。持ち主がすべてを尽くし、可能性を網羅し、それでも見つからなかった『本当の失せ物』だけが、この国への亡命資格を得るのです」
「亡命?」
「ええ。物が意志を持つという話を聞いたことくらいはあるでしょう。特に長く大切にされたものほど。その失せ物はあなたのもとを離れ、この国で『ただの銀』として生きることを望んでいます。愛着という名の鎖が、彼らにとっての檻になることもあるのですよ」
胸の奥がチクリと痛んだ。私はあのボタンを大切にしていた。大切にしていたからこそ、無くなったことがこんなに苦しいのに。
「戻るかどうかは、失せ物自身が判断します。こちらから本人に繋ぎますので、説得なさってください。ただし、通信時間は32秒。それがこの世界のルールです」
繋ぐって……どういうことだ?
プツリという音とともに、静寂が訪れた。そして、耳元で小さな、金属が触れ合うような高い音が響いた。
「……あの、聞こえますか?」
私は戸惑いながら声をあげた。確かに向こう側に何かの気配がある。
「お願いだ、戻ってきてほしい。ボタンが……いや、きみがいないと、あのコートは意味がない。祖母との思い出も、君がいなくなったら消えてしまう気がするんだ」
返ってきたのは、小さな溜息のような振動だった。
「……僕は、もう疲れたんだ」
確かに、そんな風に聞こえた。ボタンがしゃべるはずはないのだが、間違いなくあのボタンだと私は感じた。理由はよくわからない。
「きみの思い出を守る役目は、もう十分に果たしたと思う。僕はね、骨董品として100年以上、何人もの人の心に寄り添って来たんだ。だからもう、誰の記憶にも属さない、ただの金属の塊になりたいんだ」
「そんな……」
「さようなら。コートの穴は、新しいボタンで埋めてよ。それは僕じゃないけれど、新しいきみの物語になるはずだ」
プツ、という無機質な音とともに通信が切れた。
画面には【申請却下:失せ物は永住権を選択しました】という冷酷な文字が浮かんでいた。
それ以来、私のコートの左胸には、似たような、けれど全く違う市販のボタンが縫い付けられている。
時折、街を歩いていると、ふとした瞬間に視線を感じることがある。
道端の側溝の奥、あるいは自動販売機の裏側。そこには、誰かが必死に探し、ついには諦めた「本当の失せ物」たちが潜んでいるのかもしれない。
彼らは、私たちの愛情や執着という重力から逃げ出し、あの霧の向こうにある国で、ただの物として呼吸しているのだ。
最近、お気に入りの万年筆のインクが出にくくなっている。私はそれを修理に出そうとして、ふと手を止めた。
もし、このペンも「亡命」を考えているのだとしたら。
私はそっとペンを机に置き、まるで機嫌を伺うように、その滑らかなボディを撫でた。
次は、何が私の元を去るのだろう。
失せ物の国のイミグレーションは、今日もきっと、自由を求める物たちで賑わっているに違いない。
「失せ物の国」からの連絡は、いつも唐突に、私たちの喪失という形をして届くのだ。
次は、あなたのポケットの中の大切な何かが、その権利を主張し始めるかもしれない。


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