#570 落日の後悔

ちいさな物語

その町を訪れた友人の佐藤は、商店街の不自然なほどの「静寂」に違和感を覚えたようだった。

「なぁ、何食べたい? 実は料理得意だからな」

私は肉屋で豚こま肉を包んでもらいながら声をかけた。

時刻は午後四時五十九分。商店街の店主たちはすでにシャッターを半分下ろし、歩いていた人々は、まるで何かを待っているように極めてゆっくりと歩いている。

「なあ、これからなんかあるのか?」

佐藤が私の袖を引いたが、私は時計を見て「ああ、町内放送の時間だよ」とだけ答えた。

「町内放送?」

佐藤は首を傾げる。直後、町内放送が五時を告げた。『遠き山に日は落ちて』がスピーカーから音割れ気味に流れはじめる。

そして、古いスピーカー特有の低いハミング音を響かせた後、人工音声めいた女性のアナウンスがはじまった。

『本日、一丁目の遠藤氏。朝の散歩中、歩道の小さな水たまりを「浅いので無害」と断定。しかし実際に足を踏み入れたところ、意外と深さのある陥没穴であり、右足の靴下に完全に浸水。その冷たさに驚き、思わず「おほっ」と声が出たこと、およびその声を近所の女子中学生に聞かれたことを、深く後悔』

佐藤の動きが止まった。目を見開き、電信柱に設置されたスピーカーを凝視している。

「……は? 今、なんて?」

「遠藤さんか、おっちょこちょいだな」

私は閉まりかけの八百屋の軒先にある大根の具合を確かめながら、生返事をした。

『続きまして、三丁目の吉末氏。スーパーにて、定価で弁当を購入した直後、窓から店員が半額シールを持って現れたことを確認。わずかの差で発生した百八十円の損失を、現在も胃の痛みとして感じ続ける。後悔の深度、レベル3』

「……おい、おい、おい。なんだよ、これ」

佐藤が私の肩を強く揺さぶった。

「なんでこんな、死ぬほどどうでもいい町民の失敗談を流してるんだ?」

「ん? こんなの普通じゃないか?」

私は、なぜかひどく動揺している様子の佐藤を見た。

「毎日五時になると流れるんだよ。町民がその日に事務局のポストに投げ込んだ『今日の後悔メモ』を、当番の人が読み上げるんだ。田舎ならどこでもやってるだろ?」

「やってねぇよ!」

佐藤はバシッと私の肩を叩く。

放送は淡々と続く。

『二丁目の田中氏。深夜二時、空腹に耐えかねてカップ焼きそばを調理。湯切りの際、シンクに麺の三分の一を流出させるも、三秒ルールを適用し、それを拾って食べたことに対し、自身の尊厳を著しく低下させ後悔。後悔の深度、レベル4』

「田中さん、相変わらずこじらせておるな」

通りがかりの老人が、補聴器のボリュームをいじりながら小さく呟いた。

周囲の住人たちも、特に笑うわけでも怒るわけでもなく、ただ「ふむ」といった様子で、背景音としてその言葉を鼓膜に流し込んでいる。

「いや、これ絶対変だろ」

佐藤が叫んだ。しかし、その叫び声すら、商店街の無機質な静寂に吸い込まれていく。

「失敗を町内に晒して、なんかいいことあるか?」

「晒してるんじゃないよ、共有してるんだよ」

私は、手に取った大根を店主に見せ、小銭を軒先に置くとエコバッグにしまった。

「誰かの小さな後悔を聞くと、自分の今日一日が相対的にマシに思えるだろ。この町には、他人の不幸は蜜の味っていう不謹慎な感情を、公共の福祉にまで昇華させた合理性があるんだ」

「いや、マジ何言ってんのかわからん」

『本日の最終報告。本日当町を訪問中の、佐藤氏。友人の家のトイレから、トイレスリッパを履いて出て廊下を数メートル歩行の後、それに気づき、何事もなかったかのようにトイレにスリッパを戻しにいく。廊下を汚したかもという微かな後悔。本日は以上です。それでは、穏やかな夜を』

プツン、と放送が切れた。

「お前、佐藤、人んちで何やってんだよ」

私はニヤニヤと佐藤をこづいた。

「え? 何? どういうこと? 他人のことも投稿していいのかよ」

「うーん、ばあちゃんが投稿しちゃったのかな。わりとルールゆるいからな」

町は何事もなかったかのように動き出した。シャッターが完全に閉まり、高校生たちが談笑しながら帰路を行く。夕刊の配布員が自転車のベルを鳴らした。

佐藤は、自分の足元を凝視したまま固まっていた。

私は佐藤の背中を叩いた。

「ほら、もう行くぞ」

「……帰る。今すぐ帰る」

佐藤は逃げるように駅へ向かった。

「おいおい、今日泊まっていくって言ってたじゃないか」

「いや、怖い。明日の放送でまた何か言われる」

「大丈夫、ばあちゃんにはよーく言って聞かせるから」

「信用できない」

佐藤は怯えたように立ち去ってしまった。まったく。郷に入れば郷に従えという言葉を知らないのか。

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