その日のオフィスは、まるで戦場だった。鳴り止まない電話、飛び交う怒号、そしてなぜか誰かが持ち込んだであろう「たこ焼き」のソースの香りが充満し、脳が正常な判断を放棄し始めていた。
私、佐藤は、締め切り直前の資料作成に追われながら、営業部のエース(自称)である榊原さんに急ぎの連絡を入れなければならなかった。しかし、肝心の榊原さんは現在、別件で離席中。
私は、電話応対を終えて、口にグミを放り込んでいる山田さんに声をかけた。
「山田さん! 榊原さんが戻ったら伝えてください。『3時からの加馬商事との打ち合わせ、30分後ろにズレたから、あの重いサンプルはまだ運ばなくていいよ』って。お願いします!」
山田さんは虚空を見つめながら頷いた。
「了解でーす。カバ商事が後ろにズレて、重いのはナシですねー」
疲れからなのか、微妙にズレている。これが、すべての悲劇の始まりだったとは、私、佐藤はそのとき気づきもしなかった。
山田さんは、5分後に通りかかった釣りバカの田中課長に、その伝言を託した。なぜなら、彼女は別の仕事で手が離せなくなったからだ。
「課長、倉庫から至急の召集がかかったんで、榊原さん戻ってきたら伝えてください。3時にカバが後ろから来るんで、重いのは運ばないでって」
たったの5分で内容はさらに変質していた。しかも田中課長の脳内は、今週末の「マグロ一本釣りツアー」のことでいっぱいだった。
「ほう、3時にカバを後ろから狙うんだな? で、重いオモリは使わない、と。よし、わかった。任せろ」
田中課長は、ちょうど廊下を歩いていた新人の鈴木くんに声をかけた。鈴木くんは重度のFPSゲームオタクであり、常に銃声の幻聴を聞いているような男だ。
「ちょうどよかった、鈴木! 急に腹が痛くなって、便所行ってくるから榊原が戻ったら言っといてくれ。3時に後ろからカバを狙うから、重装備は解除しておけとな!」
鈴木くんの脳内で、伝言がデジタル変質を起こす。
「えっ、3時に背面から援護に入るから、重装備をパージしろ……? 了解、タクティカルな指示ですね」
鈴木くんはこの伝言を、社内一の武闘派であり「筋肉こそがソリューション」と信じて疑わない神田さんに託した。神田さんはプロテインをシェイクしながら、その言葉を受け取った。
「神田さん、ちょっと総務課から呼び出しがかかってしまって……榊原さんに緊急の伝言です。3時に後ろから田中課長をカバーして、重いのでトドメを刺すらしいです。装備の準備、お願いします」
神田さんの分厚い大胸筋がピクンと跳ねた。
「なに? 3時に後ろから田中課長を捕獲し、重い負荷で追い込めだと? ……ついに、あの人のバルクアップを強制執行する時が来たか。合点承知!」
午後2時55分。
何も知らない榊原さんが、鼻歌まじりに営業から戻ってきた。
「ふぅ、今日も暑いね。さて、3時からの加馬商事さんの準備をしなきゃな。あのサンプル重いんだよなぁ」
その瞬間、オフィスの照明が落ちた。
「えっ、停電?」
榊原さんが戸惑う中、廊下から神田さんが、シュワルツェネッガーのような足取りで現れた。その場に居合わせた全員の脳内でデデンデンデデンとターミネーターのBGMが流れる。神田さんの手には、片方30キロはある漆黒のダンベルが握られていた。
「榊原さん……覚悟はできていますね?」
「えっ、神田くん? 何そのダンベル。あと、なんで上半身裸にネクタイなの?」
横から、鈴木くんがタクティカルな動きでスライディングしながら登場した。
「ターゲット、田中課長を確認! 背面カバー入ります!」
ちょうどそのとき、トイレから戻ってきた田中課長は、きょとんとした顔で暗い室内を見ていた。
「え、え? 何を……うわああっ!」
暗闇の中で、田中課長の声が響き渡る。
「あー、カバ計画ですねー。重いやつですねー」
事務の山田さんが、暗闇でスマホのライトを照らしながら、明らかに伝言の意味を理解していないコメントをする。
「待て! 何なんだこれは!」
田中課長の悲鳴がオフィスに響き渡った。
30分後。
ようやく資料を作り終えた私、佐藤が、「そろそろ加馬商事さんとの打ち合わせの準備かな」と営業部を覗くと、そこには地獄が広がっていた。
全身パンパンにパンプアップし、なぜか頭からプロテインの粉末を被って真っ白になった田中課長が、白目を剥いて床に転がっていた。その傍らでは、神田さんが「ナイスバルク!」と叫びながらポージングを決めている。
隣で榊原さんが呆然と立ちすくんでいる。
「……何があったんですか?」
私が震える声で尋ねると、榊原さんは心ここにあらずという様子で、「わかりません」と、ゆっくりと首を振る。代わりとばかりに山田さんがグミを噛みながら答える。
「佐藤さんが言った通りにしましたよ。3時に、後ろから、重いので。榊原さんに伝えて、よくわかりませんが、田中課長が今ならカバにも勝てる筋力になってると思います」
「は? どういうこと? 田中課長は……全然関係ないですよね?」
伝言というものは、恐ろしい。
人を介するごとに、それは言葉ではなく、受け手の「欲望」や「偏見」に引っ張られて、当初の姿を失う。特に繁忙期は危険きわまりない。みんな、判断力がゴミカスみたいになっていて適当なことをする。
私は床に転がってぴくぴくと痙攣している田中課長を見た。
「榊原さん、とりあえず加馬商事さんの件、先に終わらせましょう。課長のことは後で……」
「ええ、そうですね。お待たせするわけにもいきませんし」
明日からの私の伝言は、すべて「書面」で、かつ「フリガナ付き」で行うことを、ここに固く誓う。


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