王都へ向かうため、私は日暮れの乗合馬車に乗った。
地図師ギルドの見習いになったばかりで、胸の中はやる気よりも、失敗して笑われた記憶のほうでいっぱいだ。
馬車は古く、扉には消えかけた紋章があり、御者は深く頭巾をかぶって顔を見せない。
青いランタンが一つ、揺れるたびに車体の影が長く伸びたり縮んだりする。
最初の停車は、街道の分かれ道だった。
村も家もない場所なのに、白い外套のエルフの男性が立っていた。彼は鳥のいない鳥籠を提げて乗り込み、澄んだ声で「枝鳴りの森まで」と告げた。
私は王国中の地図を写してきたが、そんな地名は知らない。
次に現れたのは、雨の匂いをまとった獣人の娘だった。狐に似た耳を立て、鳴らない銀の鈴を首から下げている。
彼女は「失われた泉で降ります」と言い、当然のように腰を下ろした。やはり知らない地名だが、御者は何も言わない。
三人目は、煤けた髭のドワーフだった。
抱えている石箱は、石なのに温かな空気を放っていた。魔法による暖房器具だろうか。
「未開の扉まで頼む」と低い声で言い、御者は黙ってうなずいた。聞いたことがない。
私はたまらず、御者に声をかけた。
「この馬車、王都へ行くんですよね」
すると御者は振り向かぬまま、静かに言った。
「昼の王都なら、別の馬車でしたな」
背中に冷たいものが走った。間違えて乗ってしまったのか。仕方がないので、見聞を広めるために少し見てから引き返そう。しかし「昼の」とはどういうことだろうか。
その時、四人目の客が乗り込んできた。
灰色の旅装の、ごく普通の人間の女だった。
けれど彼女の籠に入っていたのはパンでも果物でもなく、札ばかりだった。
木の札、真鍮の札、石の札。どれも文字が彫られていた形跡があったが、薄くなって読めなくなっている。
女は私を見ると、少し気の毒そうに笑った。
「あなた、間違えて乗ってしまったのね」
「地図の仕事をしているので、馬車にはよく乗りますが、この馬車は初めてで……」
女は小さく頷いただけだった。
馬車は走り続けた。
窓の外を流れるはずの村影はなく、代わりに、道ばたの標石だけがいくつも立っていた。墓標のようにも見えてぞっとする。どの標石も文字がかすれていて読めない。
客たちは互いの名や出自を尋ねなかった。その代わり、どこへ行くのか、そこで何をするのかだけを話した。
エルフは言った。
「枝鳴りの森は、昔は歌にされるほど美しかった。けれど百年、誰も歌わなくなって、地図からも消えたのです。私はその森に生き残っている歌う鳥を保護しに行きます」
獣人の娘は鈴を撫でた。
「泉のほとりで主人の帰りを待っていた犬がいたの。主人は匂いだけを残したまま戻らなかった。やがて泉そのものが忘れられたのよ。もちろん犬も」
ドワーフは石箱を膝に置き、鼻を鳴らした。
「山の中には、まだ見つかっていない扉がたくさんある。誰にも見つけられぬまま、鍵だけ先に出来ちまった。この箱にはその鍵がたくさん入っている。きちんと息づいて温かい鍵だ。だから俺はそのすべての扉を開けてくる」
最後に、札の籠を抱えた女が私にたずねた。
「あなたは何を求めているの」
私は首を振った。何も思い当たらなかった。ただ仕事で王都へ向かっていただけだ。
すると女は私の膝の上の革鞄を見た。中には清書前の下図が入っている。師匠の命で辺境の地図を写したものだ。
ただ、あまりに小さい集落や名のない池を、私はまだ書ききれていない。
女は私の沈黙を見て、静かに言った。
「場所はね、誰かが覚えていないと、少しずつ失われていくの。記憶からなくなるだけではなくて、本当になくなってしまうのよ。この札はなくなった場所の名前が書かれていたの。私はこの札の文字を書き直すため旅をしているわ」
やがて馬車が止まった。
窓の外には、停車場があった。屋根も壁もなく、無数の道標だけでできた停車場だった。
削れた村名、消えかけた泉の名、昔の橋の名が、月明かりの中で白く並んでいる。
エルフも獣人もドワーフも、そこで何の迷いもなく降りていった。
札の女も籠を抱えたまま振り返り、私に一枚の札を渡した。それは何も書かれていない、真新しい札だった。
「王都に着いたら、文字を書いてあげて」
ふっと意識が遠のいた。
そして気づくと朝になっていた。私は王都の手前の宿場に一人で立っており、青いランタンの馬車は影も形もない。
夢……だったのか。
けれど鞄の中には、白木の札が一枚残っていた。
その日から、私は地図をより正確に、何一つ省くことなく書き込むことに尽力した。
ギルドでは、必要のないことをしていると馬鹿にされたが、それでも私はそれをやめなかった。
名もないと思っていた池にも、風の通り道にも、慎重に調べればかつて名を持っていたことがわかる。どうしてもわからなければ一時的に仮の名をつけて、いつまでも調べ続けた。
今でも雨の夜、更けた街道で青い灯りを見かけることがある。
あの乗合馬車はきっと今も、忘れられかけた場所を求めて走り続けているのだろう。


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