#574 釣れるもの

ちいさな物語

買い物の帰りに、私は町はずれのため池でしゃがみこんでいる子供たちを見つけた。

細い竹の枝に糸を結び、先にはおそらくスルメでもつけているのだろう。

懐かしい。ザリガニ釣りに違いない。

けれど、いちばん端の男の子が引き上げたものを見て、私は足を止めた。

それは半透明の飴を無理に折り曲げたような形をしていた。

濡れた掌のうえに句読点みたいにのっている。小さく震え、真ん中の裂け目だけがゆっくり開いたり閉じたりしていた。

「釣れた」

子供はさして喜ぶ風でもなく口を開いた。周りの子供たちも驚いたようすではない。あれは、ここでよく釣れるものなのだろうか。

私は仕事柄、好奇心に駆られて近づいた。子供たちのバケツをのぞき込むと、中には同じようなものが三つほどいて、それぞれ微妙に形が違っていた。

ひとつは耳たぶに似ており、ひとつは結び目の多い紐、ひとつはつぶれた星のようだった。しかしどれも飴のように半透明で、同種のものと思われる。

「これ、何だい?」

私が聞くと、子供たちは顔を見合わせてから、声をそろえて言った。

「知らない」

私はスマートフォンで写真を撮らせてもらい、ネットで調べてみた。しかし、画像検索も、生き物図鑑のサイトも、県の外来種一覧も見てみたが、似たものは出てこない。

家に帰って学校帰りの娘にも見せたが、「消しゴムの夢みたい」と、妙に詩的なことを言って、ほとんど興味を示さなかった。

知人を頼ろうかとも考えたが、もう少し自分で調べてみてからの方がいいだろう。

翌日また池へ寄ると、昨日の子供たちは同じ場所にいた。

彼らは釣り針を使わず、糸の先に白い羽根だけを結んで、水面に影を落としていた。

「餌はそれでいいの?」

「うん。なんか、これでも釣れるんだ」

そう答えた麦わら帽子の男の子は、少し得意そうに胸を張った。

「うちでこれ、飼ってるの。言葉をしゃべるよ」

私は笑いかけて、やめた。ほかの子たちは、笑わずに頷いていたからだ。

その日の夕方、男の子に頼んで言葉をしゃべるというその生物を見せてもらう約束をとりつけた。

玄関脇の水槽にいたそれは、昨日よりひと回り大きい。成長するのだろうか。相変わらず形は不思議で、寒天細工の鳥のくちばしのような姿だ。

近づくと、水の中で身を折り、ガラスにぴたりと張りついた。そして、ひどく小さな声で言った。

「おかえり」

私は他の誰かがしゃべったのだろうと、辺りを見渡した。男の子の母親が苦笑する。

「最初は『あー』しか言わなかったのに、三日くらいで意味のある言葉をしゃべりだしたんです。気味が悪いから元いたところに放してきてって言ってるんですけど……」

男の子が指を二本立てて得意げに言う。

「昨日は『しょうゆどこ?』って言った」

冗談だろうと思いたかったが、その生き物は私の咳払いを聞くと、少し間を置いて「ゴホン」と真似をした。確かに気味が悪い。

私が昔大学で非常勤講師として生物学を教えていたことがあると言うと、男の子の母親は中に招き入れてくれた。

「こんなことってあるんでしょうか」

「いえ、あんな生き物は見たことがないんですよ。それで気になって……すみません、図々しくあがり込んでしまって」

母親の話では、男の子がマグカップを倒してしまったときに、「だから気をつけてって言ったのに」と言ったら、水槽のほうから「ごめん、あとでやるつもりだった」という声がしたというのだ。

それは父親がよく言ういいわけなのだそうだ。

「私、本当にぞっとしてしまって」

それが本当だとしたら、その生き物は人間の声の調子から、どんな言葉が的確なのか、学習しているとも考えられる。

翌日から、私は池の由来を調べた。あれは池の中だけで独自の進化を遂げた何かなのかもしれない。

古い郷土誌には、ため池ができる前、そのくぼ地に「仮言場」と呼ばれる広場があったとだけ記されていた。

市が立つ日には大勢の人が集まり、売り声、泣き声、約束、言いそびれた言葉まで、夕方になると地面に沈むのだと信じられていたらしい。いわゆる「土地の伝説」というやつだ。

あの生き物がそういった由来で言葉を覚えるのか?

そんな妄想をしたが、あまりに馬鹿げているので私は誰にも話せなかった。

一週間後、池のそばを通ると、子供たちはボール遊びをしていた。

「今日は釣らないの?」

と聞くと、男の子が首を振った。

「もうやめた」

「どうして?」

男の子は水面を見たまま答えた。

「お母さんが、『怖いからやめて』って……」

帰りぎわ、風もないのに池の中央だけが小さく波立った。

水面の下で、いくつもの半透明な影がゆっくり向きを変え、まだ口になりきらない裂け目を開閉しているのを想像する。

耳を澄ますと、聞こえたのは意味のある言葉ではない。「あー」という吐息のような声だった。

子供たちは一瞬だけ黙って、また何事もなかったかのようにボール遊びを再開した。

たぶん、あの池で釣れるのはただの生き物ではない。学会に発表したら大騒ぎになるだろう。また生物学者としての仕事の口が見つかるかもしれない。

しかし、この謎を解明しようとすることはためらわれた。理由はよくわからない。「触れてはならない」そんな気がしたからかもしれない。

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