都会の喧騒から取り残されたような、湿った路地裏の奥、古いコインランドリーと、看板の消えかかったスナックに挟まれた場所に、その店はあった。
錆びついた鉄の扉には、控えめな手書きのプレートが下がっている。
「いいわけ ご調整いたします」
佐藤は、震える手でそのドアを押した。
彼は絶体絶命だった。
昨夜、不倫相手との密会に夢中になるあまり、妻との結婚記念日を完全に忘れていたのだ。
それだけではない。今朝は二日酔いで寝過ごし、会社の大事なプレゼンに間に合わなかった。いつも妻が起こしてくれるのだが――。
スマホには妻からの冷徹なメッセージと、上司からの着信履歴が積み重なっている。
「……どうぞ、奥へお入りください」
低く、特徴のない声が響いた。
中に入ると、そこは図書館と保健室を混ぜ合わせたような、奇妙な匂いが漂う空間だった。壁にはびっしりと本や書類が収められた書棚があり、古本屋のような雑多な雰囲気だった。
目につく棚には「交通機関の乱れ」「身内の不幸」「突発的な体調不良」といったラベルの貼られたファイルが並んでいる。
噂ではどんな失敗にも、完全に辻褄の合ういいわけを提供してくれるのだとか。
カウンターの奥には、灰色のスーツを着た男がいた。思っていたよりも若く見える。
「どのような『いいわけ』をご所望で?」
男は表情ひとつ変えずに問いかけた。
佐藤は、縋るような思いで事情を話した。こうなったら、なりふりかまっていられない。
結婚記念日の忘却、そして会社への大遅刻。
「なるほど。では、二つのパッケージをご提案しましょう。奥様には『救急搬送の目撃と救護協力』。会社には『深夜のシステム障害への遠隔対応』。これならば、あなたの不貞も怠慢も、美談と献身に書き換わります」
佐藤は半信半疑だった。
「そんな嘘、すぐにバレるんじゃ……」
「ご安心を。私たちが売るのは言葉だけではありません。いいわけを事実として完全に補強する。これこそが、我々の真骨頂です」
男はカウンターの下から、数枚の書類とタブレットを取り出した。
そこには、佐藤が昨夜、道端で倒れていた見知らぬ老人を助け、救急車に同乗したことを示す病院の受付票の控えがあった。
日付も時間も完璧だ。
さらに、会社の上司宛てには、深夜二時に佐藤の社内IDからシステムサーバーにアクセスし、バグを修正したという偽造ログイン履歴のスクリーンショットまで用意されていた。
「オプションで、病院の匂いが付着したハンカチと、徹夜作業で充血したように見える目薬もお付けしましょう」
佐藤は震える手で代金を支払った。
決して安くない金額だったが、破滅を免れるためなら安いものだ。
男は最後に、奇妙な注意を付け加えた。
「いいですか。一度売買が成立すれば、その『いいわけ』はあなたの真実になります。決して、元の真実を思い出そうとしないでください。帳尻が合わなくなりますから。あと――いいわけの多用には注意してくださいね」
店を出ると、不思議なことが起こった。
スマホを確認すると、さっきまであったはずの上司からの着信履歴が消えていた。
代わりに「昨夜は緊急対応ありがとう。今日はゆっくり出社してくれていい」という労いの言葉が届いている。
自宅に帰れば、妻は怒るどころか「人助けをしていたなんて、あなたらしいわ」と、涙ぐんで佐藤を迎え入れた。
完璧だった。
佐藤の人生から、失敗の汚れが綺麗に消え去ったのだ。ただいいわけを準備してくれるだけだと思っていたら、事実が丸ごと入れ替わっているではないか。
こんな非現実的なことが起こってもいいのだろうか。
少しぞっとしたが、絶体絶命のピンチを切り抜けた安堵から細かいことを気にする余裕もなかった。
それからというもの、佐藤は「いいわけ屋」の常連になってしまった。
仕事のミス、私生活での不貞、些細な不運。
そのすべてを、男が用意する「もっともらしいいいわけと証拠」で塗りつぶしていった。金はかかるが、すべてがうまくいく。
佐藤の周りには、彼を称賛する友人や、信頼を寄せる同僚、尊敬してくれる家族ばかりになった。
しかし、あるとき佐藤の体調に異変が起きた。右足に、覚えのない深い傷跡ができていたのだ。
「いいわけ屋」で『階段から落ちた怪我で約束した時間に行けなかった』という言い訳を買った翌日のことだった。
怪我は非常に痛んだ。身体に損害がおよぶいいわけには注意したほうがいいなと佐藤は思った。
だが、次に『親戚の葬儀』という言い訳を使ったとき、佐藤の記憶から、その親戚の顔が完全に消えていた。
アルバムを見ても、そこに写っているはずの人物の顔が、霧がかかったように真っ白になっているのだ。
怖くなった佐藤は、再び路地裏の店へ駆け込んだ。
「……どういうことだ! こんな風になるなんて聞いてない。いいわけはあくまでいいわけなんだろ?」
男は、相変わらず無表情にファイルを整理していた。
「何を今さら……世界は一貫性を好みます。あなたが『嘘の真実』を選び続ければ、元の真実は完全に消えます。いいわけを真実にするというのはそういう意味なんです。ご説明したはずですよ」
「もういい、全部元に戻してくれ! 嘘なんていらない!」
佐藤が叫ぶと、男は初めて薄く笑った。
「おや、それは困りました。すでにあなたの人生の八割は、私から購入した『いいわけ』で構成されています。今さらそれらを撤回すれば、あなたの存在そのものの辻褄が合わなくなりますよ」
佐藤はぐっと身を引いた。
「あなたは『仕事ができる誠実な人間』としてここにいる。もし元のあなた――『不誠実で無能な男』に戻れば、今の地位も、家族も、この健康な体さえも一瞬で崩壊するでしょう」
佐藤は足元が崩れるような感覚に襲われた。
「いや、それでもいい! 自分の人生を取り戻したいんだ!」
「……左様ですか。では、あなたが使える最後のいいわけをお出ししましょう」
男が差し出したのは、真っ白な一枚の紙だった。
「これは?」
「これにサインすれば、あなたの過去の過ちも、今の苦しみも、すべては『長い夢を見ていた』ということに書き換えられます。ただし、その夢から覚めたとき、あなたがどこで何をしているかは保証できませんがね」
「夢……」
「ええ、そうです。次に目覚めたとき、あなたは『――こういう夢を見た』と、誰かに語っていることでしょう」
佐藤はしばし躊躇したのち、震える手でペンを取った。
目の前の男の顔が、急激に薄れていく。路地裏の湿った匂いも、錆びた扉の感触も、遠ざかっていく。気がつくと、佐藤は真っ暗な部屋にいた。
手には、一本のペンと、書きかけの原稿用紙がある。体は重く、ひどく腹が減っていた。
部屋に窓はなく、薄暗い。小さな机の上には、一通の手紙が置かれていた。
「拝啓
新作の執筆、お疲れ様です。
今回の『いいわけ屋』という物語も、実に独創的で素晴らしい。
あなたが現実逃避のために書き上げたこの『いいわけ』が、読者に受け入れられることを願っています。
なお、あなたの本当の人生――すなわち、この監獄での服役期間については、あと三十年ほど残っております。
現実に戻る準備ができたら、またベルを鳴らしてください。その余裕がなければ、再度『いいわけの世界』に戻っていただいても結構です。
それではまた。敬具」
佐藤はペンを落とした。
自分の名前すら、もう思い出せなかった。



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