#577 意識高い系ねこの哲学

ちいさな物語

雨の降る土曜日だった。

路地裏の段ボール箱にいたのは、震える子猫……ではなく、どこか遠い未来を見据えているかのような眼差しをした一匹のサバトラ猫だった。

「ニャア(お前、リソースに余裕はありそうだな。アライアンスを組まないか?)」

猫の鳴き声と二重になって人の声が聞こえた……気がした。いや、そんなはずない。気のせいだろう。

とにかくこのまま放っておいてはこの猫は死んでしまう。

僕はその場で猫に「レオ」と名付け、家に連れ帰った。

それが、僕の平穏な日常が「爆速でアップデート」される始まりだった。

翌朝、午前4時。まだ外は真っ暗だというのに、顔面に衝撃をくらった。レオの肉球による、容赦のない「猫パンチ」である。

「痛いな、レオ……まだ4時だ。寝かせてくれよ」

「ニャー(成功者の朝は早い。この静寂こそが、クリエイティビティを最大化させるゴールデンタイムだということに、いい加減気づけ)」

まだ寝ぼけているようだ。鳴き声にまた声が重なって聞こえる。

レオは窓際でキリッとした表情をして座っていた。

眠い目をこすりながら起きると、レオはじゃれついているような仕草で僕のスマホを叩き、「マインドフルネス」というタイトルのYouTube動画を再生させた。

部屋中に妙な音楽が流れる。

「レオ、いたずらするなよ」

僕は動画を即座に終了させた。レオは不満げな顔をして、こちらをじっと見ている。いちいち仕草が人間っぽい。

仕事から帰宅すると、リビングが惨状と化していた。棚に飾っていた、奮発して買った北欧ブランドのグラスが粉々になっている。

「レオ! なんてことをするんだ!」

「ニャー(スクラップ・アンド・ビルドだ。古い価値観、つまり『形あるものへの執着』という固定観念を破壊しなければ、新しい自分は生まれない。これは破壊的イノベーションだ)」

また、何か聞こえた。

「ニャー(自分が常識だと思っていることも、疑ってかかれ)」

レオは割れたガラスの破片を一切気にすることなく、優雅に毛づくろいをしている。その背中は哲学者のように見えた。

僕は泣きながら掃除機をかけた。

しかし、なぜか「確かに、物はいつか壊れる。僕の心もアップデートが必要なのかもしれない」という謎の気づきに支配されつつあった。

そういえば最近、生活にほとんど変化がない。

当たり前に会社に行って、当たり前に仕事をする。いつもと同じ生活、行動……「当たり前」ってなんだ?

僕がソファに転がって、テレビを観ながらポテトチップスを食べていると、レオは突然、僕の顔面の上にどっしりと座り込んできた。

「……レオ、重いよ。前が見えない」

「ニャーン(これは『信頼の可視化』だ。お前の顔という最も重要なインターフェースに、僕という重量級のコミットメントを乗せる。これにより、我々のエンゲージメントは深まる。テレビを見る暇があるなら、僕の体温を感じろ)」

また何かが聞こえた。レオはもしかして本当に特別な猫なのか。

鼻の穴を尻尾で塞がれ、窒息しかけていた。

1ヶ月後、僕の生活は一変していた。

出社すると同時に、僕は上司に向かって「その指示、アジャイルじゃないですね。もっとスピード感を持って、PDCAを光速で回しましょう」と言っていた。

レオから聞こえてくる謎の声に完全に洗脳されている。

会議では「このプロジェクト、シナジーが足りません。一旦すべてをリセットして、カオスの中から新たな秩序を生成すべきです」と、レオ(のような何か)に教わった『固定観念の破壊』を実践した。

もちろん、会社での評価は「あいつ、急に変なセミナーにでもハマったのか?」と最悪だった。

しかし、僕の心は、レオの体毛のようにふわふわと軽く、かつレオの爪のように強靭に研ぎ澄まされていた。

ある晩、僕はレオと並んで食事をとっていた。レオはキャットフード(最高級のオーガニック)、僕はプロテインを飲んでいた。夜は固形物と炭水化物の摂取を控えている。

「レオ、君のおかげで分かったよ。会社なんていう古いプラットフォームに依存していること自体が、リスクなんだね」

「ニャア(よく気づいたな。お前の市場価値は、お前自身が決めるものだ。現状維持はときに退化、機会損失となる)」

僕はその場で退職願の作成を始めた。

理由は「自身のバリューをグローバルに展開するため」だ。できあがった退職願を上司宛てのメールに添付する。

レオは満足げに喉を鳴らし、僕のノートパソコンの前に立つと、そのままエンターキーを力強く叩いた。送信が完了した。

今、僕はレオと一緒に、海が見える丘で「猫カフェ併設型コワーキングスペース」の経営を検討している。

レオは、すでに地元の野良猫たちを集めて「野良からの脱却。エサをもらう側から、世界を変える側へ」というセミナーを開催しているようだ。

「レオ、これからはどんな戦略で行こうか?」

「ニャー(まずは、そのだらしない姿勢を直せ。成功者は背中で語るものだ)」

そう言ってレオは、また僕の顔面に座ってきた。信頼の可視化。

僕は、視界を塞ぐ猫の毛の感触を楽しみながら、確信した。

僕の人生の解像度は、今、間違いなく4Kを超えているのだ。

次に狙うのは、そう、キャットタワーの頂上。いや、世界の頂点だ。

レオの尻尾が、成功への道標として僕の前に揺れていた。

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